73話 父親の威圧と、コンマ数秒の命懸けソロバン
父親の威圧と、コンマ数秒の命懸けソロバン
王都での目まぐるしい騒動を終え、ようやく住み慣れた辺境伯領の懐かしい土を踏んだのも束の間。馬車から降りて旅の埃を払う暇すら、ヒビキには与えられなかった。
彼を待ち受けていたのは、一族の絶対的な長にしてこの地を統べる支配者である、実の父親からの執務室への即時呼び出し状だった。
歴史を刻んだ重厚なオークの木で造られた扉の前に立つだけで、中から漏れ出てくる尋常ではない圧迫感に、ヒビキの皮膚がチリチリと粟立つ。重い真鍮のノブを回して一歩踏み込むと、そこは年季の入った革と古い羊皮紙、そしてかすかに煙草の苦い香りが混ざり合う、沈鬱なまでに静まり返った空間だった。
部屋の奥、巨大な黒檀の執務机の背後にある、使い込まれた大振りの革椅子に、現・辺境伯が深く腰掛けていた。鋼のように鍛え上げられた太い腕を胸の前でがっしりと組み、その表情には一切の感情が浮かんでいない。ただ、暗がりの底でギラリと光る猛獣のような眼光だけが、部屋に入ってきた息子の一挙手一投足を、値踏みするようにジロリと睨みつけていた。
「ヒビキ。お前、王都で陛下直々の王女との縁談を、秒で蹴り飛ばしたそうだな。……一体どういうつもりだ? 理由を言え」
低く地鳴りのように響く父親の声は、目に見えるほどの質量を伴った物理的な重圧となって、広い執務室の空気を震わせた。窓ガラスがかすかに共鳴し、室内の観葉植物の葉が静かに揺れる。
これほど近くで放たれる、王国最強と謳われる男の生々しい威圧感に、ヒビキの心臓は一瞬にして跳ね上がり、背中にはどっと冷たい汗が吹き出した。衣服が肌に張り付く不快感を覚えながら、ヒビキの脳内では赤色灯が激しく回り、警報が鳴り響いていた。
(やべぇ、やべぇ、やべぇ……! 親父の目が完全に本気だ。これ、一歩間違えたら言葉じゃなくて拳が飛んでくる距離感だぞ)
(ここでもし、『王都なんかに行ったら四六時中、王宮の魔導師や監視役にマークされて、裏山でこっそり大規模魔法をぶっ放してストレス解消することもできなくなるし、ステータスBPを使った怪しい実験をしてダラダラ過ごす人生設計が崩壊するからサボりたかった』なんて、本音中の本音を正直に言ってみろ。これ……間違いなく、一撃でこの頑丈な防音壁ごと、俺を中庭の噴水の底までぶっ飛ばされて、文字通りの意味で肉体が消滅しかねないだろ!)
目の前に座る父親は、政治的な駆け引きを得意とする都会の貴族たちとはわけが違う。辺境という魔境を力でねじ伏せ、守り抜いてきた絶対的な強者であり、嘘や誤魔化し、甘えを見抜く野生の直感においては、どんな魔物よりも鋭い。下手にその場しのぎの浅い嘘を並べ立てれば、その瞬間、一族の恥として叩き直される未来しか見えなかった。
(ここは、父親が感情的にも論理的にも、絶対に納得せざるを得ない、最も無難で、かつ角が立たない『究極の言い訳』を、このコンマ数秒の間に脳内で高速構築しなきゃいけない……!
王家との結びつきという、これ以上ない政治的なカードをあっさりと捨て去ったことに対する、誰の目から見ても正当な理由。かつ、辺境伯家の名誉や不利益にならず、むしろ我が家の独立性とプライドを守るためにあえて泥を被ったのだと、親父に思わせるような、完璧な大義名分。それを、今すぐここでひねり出さなきゃ、俺の命が本気で危ない!)
ヒビキは完璧な無表情を維持したまま、肺いっぱいに執務室の重苦しい空気を吸い込み、喉から出かかった悲鳴と背中の冷や汗を必死に抑え込んだ。そして、親父の鋭い眼光をまっすぐに見つめ返した。彼の脳内ソロバンは、これまでの人生で培ったすべてのサボりスキルを総動員し、生き残るための命懸けの計算を、凄まじい速度で弾き始めていたのだった。




