72話 勘違いの美談と、冷や汗のポーカーフェイス
勘違いの美談と、冷やし果実水(2)
――しかし、当のヒビキには、そんな老臣たちの熱い眼差しなど、いささかも届くはずがない。
彼の脳内では「婚約者」という架空の設定が、思っていた以上にこの場を丸く、そして迅速に収めたことに深い安堵を覚えていた。「これで一生、王都の面倒な書類仕事に追われることもないな。それより、帰りに裏路地で売っている、あの喉越しのいい果実水をキンキンに冷やして飲むのが楽しみだ……」と、脳内は帰路のルート選定と、美味しいおやつのことで占められている。
こうして、ヒビキの「ひたすらにサボりたいだけ」という極めて利己的かつ平凡な行動は、周囲の勝手な美談化という名のフィルターを通すことで、王国全土にその名声が「権力に溺れぬ高潔なる若き英雄」として、美しく、そして致命的なほどに誤った方向で刻み込まれていくのであった。
勘違いの美談と、冷や汗のポーカーフェイス
ヒビキの背筋を、氷のような冷や汗が静かに、しかし確実に伝い落ちていた。
先ほどまで王の間に満ちていたピリピリとした殺気や、魂を削るような恐怖の空気は完全に霧散していた。代わってそこに漂い始めたのは、慈愛や尊敬、さらには未来への期待に満ちた、妙に重苦しくて甘ったるい、居心地の悪い空気だった。
周囲の重鎮たちや老臣たちが、先ほどまでの怯えた様子とは打って変わって、まるで慈悲深い聖人や祖父が孫を見つめるような、湿り気を帯びた熱い眼差しを容赦なく向けてきている。彼らの瞳には、何かの信仰にも似た奇妙な輝きさえ宿っていた。
(……え? ちょっと待ってくれ。なに、この空気……。なんでみんな、急にそんな慈愛に満ちた目で俺を見てるんだ? 怖い、怖すぎる……)
彼らの間でヒソヒソと交わされる会話の断片が、鋭い聴覚を持つヒビキの耳に、次々と突き刺さる。「……まさか、この若さでこれほどの分別を持った若者とは」「うむ、我が身の栄達などという欲のためではなく、ただ誓いを守るために権力を蹴るか。天晴れな器よ。久しく忘れていた騎士の魂が、ここにあるわ」――。
(嘘だろ。まさか、俺がさっき言った『婚約者がいる』っていう適当な言い訳が、とんでもない方向で美談として解釈されてるのか!? いや、そもそもそんな杜撰な言い訳がバレて、逆上のあまりみんな頭がおかしくなったのか!? 頼む、これ以上俺を英雄扱いするのはやめてくれ……!)
ヒビキの思考回路は、極度のストレスで火花を散らしながらフル回転していた。彼にとって「婚約者」とは、ただの面倒事回避のための、実体のない便利な「逃げ道」でしかなかったのだ。それなのに、今のこの尊崇の念に満ちた熱い視線と、過剰なまでの評価は一体何事だ。
(怖い……。怒鳴られるより、糾弾されるより、よっぽど怖いぞこの空気は。このままいくと、『その高潔な若き英雄を支える婚約者とは一体どんな令嬢だ』とかいう探り合いが始まったり、変な式典や勲章授与の嵐に巻き込まれたりするんじゃないか? そんなことになったら、一生辺境でダラダラと昼寝なんてできなくなるじゃないか!)
背中を流れる冷や汗が、シャツの下で不快なほどにじわじわと広がり、皮膚を伝う感覚が鳥肌を誘う。ヒビキは、内心で「もう勘弁してくれ」と叫びたい衝動を、鋼鉄のごとき意志で喉の奥に封じ込めた。ここで少しでも動揺を見せたり、困惑を露わにしたりすれば、それがさらなる「奥ゆかしい謙虚さ」や「高潔な照れ」と誤認され、面倒な詮索を招くことは目に見えていた。
彼は顔の筋肉を完全に硬直させ、あくまで「高潔で、何を考えているか読み取れない超然とした、達観した若者」という仮面を完璧に維持する。表情一つ変えず、瞬きさえも慎重にコントロールしながら、静かに、ひたすら大人しく玉座の前に佇み続けた。
(頼むから……頼むから早く俺をこの部屋から解放してくれ……! こんな高尚な英雄ごっこは、もうお腹いっぱいだ。俺はただ、辺境の風に吹かれながら、誰にも干渉されずに日がな一日ダラダラしていたいだけなんだよ……!)
周囲からの「英雄を見る目」という名の無言の圧力を浴びれば浴びるほど、ヒビキの内心での危機感は募る一方だった。彼はこの静寂の中で、早く帰路の門をくぐれる時が来ることを切に祈りながら、必死に張り付いたようなポーカーフェイスを維持し続けるのだった。




