70話 安堵の算盤と、すれ違う王宮
貴族たちの「勝手な深読み」と恐怖(2)
(信じられん……国王陛下直々の縁談という国家の命運を賭けた申し出を、たかだか「個人の先約」という言葉一つで、紙屑のように踏み潰してみせた……! あれが、あの「虚無の焦土」を作り出した男の器なのか。もしここで我々が彼を軽んじ、あの魔物を一瞬で分子レベルまで分解した規格外の魔法が、万が一にもこの王都に向けて放たれたら……王宮も、この豊かな王都も、歴史ある我が王国すらも、たった一日のうちにこの世から消滅するぞ……!)
重鎮たちの脳裏には、国境を一瞬で鏡のような更地にした、あの地獄のような紫の熱線と、すべてが塵に帰した光景がフラッシュバックする。彼らにとって、ヒビキの返答は単なる拒絶ではない。「王家の権威を公の場で失墜させ、その実力を王都の民すべてに見せつけ、辺境伯家の絶対的な支配力を王国全土に突きつける」という、恐るべき政治的宣戦布告であると脳内で変換されていた。
玉座の間を警護するエリート騎士たちですら、その威厳ある鎧の中で、細かな痙攣を繰り返している。彼らはヒビキの余裕に満ちた佇まいを、力を持つ者だけが持ちうる「絶対的な不敵さと侮蔑」と解釈し、自らの命の重さを、まるでロウソクの火のように頼りなく感じていた。
だが、当の本人はといえば、そんな周囲の阿鼻叫喚など露ほども知らず――。
(……はぁ。やっと終わったか。王宮の空気って妙に乾燥してるから喉が渇くんだよな。この後、王都の裏路地にある、あの評判のいい果実水でも飲んでから帰るか。それとも、明日の午前中にはもう辺境の屋敷で昼寝ができるかな)
ただただ、「面倒な政治儀礼から解放され、いかに快適に帰路につくか」という昼食のメニューと帰りのルートを心の中で淡々と検討していただけなのである。しかし、その無自覚すぎる凪のような余裕が、周囲には「王を軽んじるほどの圧倒的な覇者の風格」として映り、王宮をかつてないほどの恐怖の坩堝へと完全に沈めていたのであった。
安堵の算盤と、すれ違う王宮
王の間を支配していた張り詰めた空気は、ヒビキの拒絶が確定した瞬間、奇妙な変質を遂げていた。
先ほどまで恐怖のどん底に突き落とされ、ヒビキの「不遜な力」に脳を焼かれていた上級貴族たちの心境に、突如として安堵という名のぬるま湯が広がり始めたのである。
彼らの脳裏で急速に回転し始めたのは、この国における自らの生存戦略という名の、極めて現実的で冷徹な算盤であった。
(……待て。冷静に考えれば、これは最悪の事態を免れたということではないか?)
宰相の脳内で、凄まじい速度で損得勘定が弾かれる。もしここでヒビキが王女と婚姻を結び、王家の権威という名の最終兵器まで手中に収めていたとしたらどうなっていたか。それは、辺境伯家が名実ともに王家を食らい、この国の「絶対的な支配者」として君臨することを意味する。中央の政治に巣食い、利権を貪ってきた彼らにとって、それは自らの居場所や影響力が根こそぎ消滅する、終わりの始まりだった。
(そうだ……そうだとも。奴にこれ以上の権力と地位が渡らなくて、本当に助かった……! 神よ、この結末を導いてくれてありがとうとしか言えない!)
彼らは内心で背中を伝う冷や汗を拭いながら、胸の中で大きく安堵の息を漏らす。先ほどまで恐怖で震えていたはずの膝が、今や「この厄災が自分たちの勢力圏から去ってくれる」という歓喜によって、別の意味で震えていた。彼らにとってヒビキの拒絶は、王家に対する無礼などではなく、自分たちの既得権益を守ってくれた「賢明な選択」にすら見えてきたのだ。
そして、その安堵は同時に、ヒビキという男に対する深い「呆れ」という感情へと滑らかに変化していく。




