63話 空を裂く、紫の巨大魔法陣と「絶対的な恐怖」
ただ「サボり場所」を守るための溜め息(2)
シアは、ヒビキのその言葉の意図を完全に理解し、その瞳に「さすがは我が主」と言わんばかりの深い崇拝と熱い羨望の光を宿らせる。
アゼルもまた、微塵の狂いもない姿勢のまま、主のどこまでも徹底された怠惰の哲学に魂から震え、白手袋の手をそっと胸に当てて深く、深く陶酔していた。
「――だったら、ここで一気に、元から何もなかったことにしよう」
ヒビキはこれ以上ないほど面倒くさそうに、ズボンのポケットに突っ込んでいた右手を、重い腰を上げるようにしてゆっくりと抜き取った。
そして、青く晴れ渡った、けれど北の方角からじわじわと瘴気の雲が広がりつつある天に向かって、スッと、羽毛を持ち上げるかのような軽やかさで右手をかざすのだった。
空を裂く、紫の巨大魔法陣と「絶対的な恐怖」
ヒビキがただただ億劫そうに、ズボンのポケットから引き抜いた右手を、重い腰を上げるようにしてゆっくりと、驚くほど無造作に天へと掲げた。
それは、羽毛を持ち上げるかのような軽やかさであり、世界を滅ぼさんとする緊張感や覇気など一片すら存在しない、まさに欠伸の延長線上に位置する退屈な動作であった。
しかし――。
その瞬間、世界を構成するすべての理と因果が、根底からひっくり返った。
ヒビキの足元から、ラベンダー色に輝くシアの美しい瞳よりもはるかに禍々しく、鮮やかでありながら脳の認知機能を直接汚染するような、おぞましい「深紫色」の光が、極太の光柱となって突如天へと爆発的に立ち上った。
ドォォォォォォン……ッ!!!
大地がまるで心臓の鼓動のように激しく跳ね上がり、狂ったような震動が平原を突き抜ける。
直後、はるか上空の天を覆っていた雲が一瞬にして巨大な円状に引き裂かれ、消滅した。青空だったはずの天空を完全に埋め尽くすように展開されたのは、視界の限界すら超え、世界の境界線そのものを押し広げるように蠢く超巨大な二重魔法陣であった。
深紫色の不気味な光を放つその幾何学模様は、まるで天そのものが巨大な眼を剥いてこちらを見下ろしているかのような、圧倒的な威圧感をもって脈打っている。
その超巨大魔法陣が起動した瞬間。
――世界から、すべての「音」が完全に消え去った。
風の囁きも、青々とした草が波打つ音も、さらにははるか北方から地響きを立てて迫っていた何万もの魔獣たちの怒号すらも、一切が完全に遮断され、無に帰す。
あまりにも膨大で、常軌を逸した超重力と濃密な魔圧の前に、周囲の空気そのものが分子レベルで強制的に圧縮され、ギチギチと空間が引き裂かれるような悲鳴を上げているのだ。完全な無音と化した平原には、ただ、脳髄を直接狂わせるようなキィィィィン……という悍ましい耳鳴りの高周波だけが、絶対的な支配者として君臨していた。
――そして。
その異次元の魔圧を至近距離で、それも無防備な状態で浴びた世界最強格の存在たちに、かつてないほどの激震が走る。
「あ……、あ、う、あ……っ」
真っ先にその場に膝から崩れ落ちたのは、魔界の王女であり、並び立つ者なき最上位悪魔であるシアだった。
それまでヒビキの膝の上で甘え、愛らしい蕩けた表情を浮かべていた姿は一瞬にして掻き消える。シアは酸欠の魚のように喉を詰まらせ、地面に白く細い両手をついて、生まれたての小鹿のようにガタガタと全身を激しく震わせ出した。
毛穴という毛穴から冷や汗が洪水のように吹き出し、大気が重すぎて一呼吸を吸い込むことすらできない。身体中の全細胞が、ただの「一歩先にある死」ではなく、「存在そのものの完全な消滅」を察知し、悲鳴を上げ続けていた。
「な、何ですか……この、神話の記述すら生温いほどの魔力は……っ!? 違う、これは……魔力などという高尚な、都合の良い概念ではない……! 『破滅そのもの』が、具現化した終末が、ただそこに立っている……っ!!」
シアの隣で完璧な直立不動を維持していたアゼルもまた、その生涯において一度も崩したことのない、気品ある紳士の仮面が跡形もなく吹き飛んでいた。
パシッ……、パシシッ。
主が放つ狂暴な魔力の余波、ただ漏れ出ただけの風圧にも似た大気のきしみによって、アゼルの眼鏡のガラスレンズに細かなヒビが入り、不吉な音を立てて砕けかけていく。
昨日、密偵たちの魂を引きちぎり、概念消滅させた、あの汚れ一つない真っ白な絹の手袋をはめた両手は、今やどれほど強く力を込めて押さえようとしても、激しい震えを止めることができなかった。
アゼルの中に眠る悪魔としての原初にして最上位の「本能」が、かつて経験したことのない、最大級にして最悪 of 警告音を、脳内でこれでもかと鳴らし続けていたのだ。
(死ぬ……っ! この御方がその気になれば、人間界はおろか、我らの故郷である魔界そのものが、一切の抵抗も許されず、概念ごと一瞬にして消え去る……ッ!!)
魔王の苛烈な血を引くシア、そして冷酷無比な最強の守護者であるアゼル。
並の人間であれば、一睨みされただけで精神を木端微塵に崩壊させられるはずの、世界における圧倒的絶対強者の二人。
その彼らが、ただヒビキの気だるげな背中を見上げるだけで、膝をガクガクと震わせ、根源的な死への恐怖のあまり、その瞳から大粒の涙すら浮かべていた。
ヒビキ自身には、彼らを威圧しようという意図など微塵もない。ただ自分の心地よいサボり場所を守るために、極めて面倒くさそうに魔法を使おうとしている、ただそれだけだ。
――にもかかわらず、制御しきれずに周囲へほんの僅かにこぼれ落ちてしまった魔力の端切れだけで、世界最強の悪魔たちは魂の最深部から完全に屈服し、ただ恐怖に身を竦めることしかできなくなっていた。
天に展開された魔法陣の深紫の文様が、さらに速度を増して回転し、凝縮されていく。
まるで空間そのものが捻じ切れ、世界がペシャンコに押し潰されるかのような、圧倒的な破滅の圧力が上空から降り注ぐ。
ヒビキがただ右指を小さく動かした。それだけの合図で、凝縮された紫の超高熱源体が、大気を一瞬で蒸発させながら、世界を揺るがす絶対的な光となって今、解放されようとしていた。




