62話 ただ「サボり場所」を守るための溜め息
パニックに陥る辺境伯領と、父親の決意(2)
だが、辺境伯は不敵に、そして獰猛に、飢えた狼のような笑みで唇の端を吊り上げた。
「辺境伯軍、全軍突撃の準備をせよ」
彼は円卓の上を、鋼の手甲で強く叩きつけ、己の全魔力と闘気を込めた覇気ある声を部屋中に響かせる。
「我が一族がこの地を任されてから、一度たりとも北の防壁を突破させたことはない! 我らがここで一歩でも退けば、その瞬間に背後の王国そのものが滅ぶと思え! 背後にいる領民たちを、我らの愛する家族を、ただの肉片にされてたまるものか! 全兵士、全冒険者、己が命を賭して、この最終防衛線を死守するのだ!!」
「おおおおおーーーーッ!!!」
死を完全に覚悟した辺境伯の熱い決起の雄叫びに、騎士たちが一斉に抜剣し、剣を掲げて応じる。
全滅を前提とした、しかし一歩も退くことの許されない、命を燃やす絶対防衛戦。男たちはそれぞれの武器を強く握り締め、胸の中に残る家族の顔を思い浮かべながら、血を流し、冷たい死地へと赴く覚悟を完全に固めていた。
領地全体を包み込む、世界の終わりのような破滅の足音と、悲壮な決意の嵐。
誰もが死を間近に感じ、絶望の淵に立たされている中――。
その一方で、あの平原の陽だまりだけは、あまりにも場違いなほどに、ただ穏やかに輝いていた。
ただ「サボり場所」を守るための溜め息
領地全体を包み込む絶望的な狂気と、死を覚悟した戦士たちの悲壮な決意の叫び。そんな世界の破滅の足音が、目に見えぬ震動となって大気を、そして大地を確かに揺らし始めていた。
空の果てからじわじわと迫り来る、おぞましい赤き魔獣たちの気配。
だが、その世界の崩壊の予兆を、誰よりも早く、そして恐ろしいほど正確に肌で感じ取ったヒビキは、ただただ鬱陶しそうに、その眉根を深く寄せた。
「……はあ。最悪だ」
吐き出されたのは、あまりにも気の抜けた、けれど心底から嫌気が差したような、心の底の底から絞り出された深い溜め息だった。
ヒビキはシアの柔らかく芳しい太ももから、名残惜しそうに、けれど至極面倒くさそうな気だるげな動作で頭を上げると、のそりと立ち上がった。
その突然の動きに、膝を枕として愛おしそうに提供していたシアは、潤んだ瞳をさらに丸くして彼を見上げる。
「ヒビキ様……?」
不安げに尋ねるシアの隣で、日傘を調整していたアゼルもまた、眼鏡の奥の真紅の瞳をうっすらと細め、はるか北方の空を見据えていた。
彼らのような、魔界の深淵に君臨するはずの最上位悪魔でさえ、まだその目や魔力知覚では群れの全容を視認できていないほど、それは遠い距離――数十キロメートルも先の、地平線の彼方の出来事。
だが、前世のシステム知識と規格外のパッシブスキルを常時展開しているヒビキには、すでにそのすべての状況、魔獣一匹一匹の息遣いに至るまでが、完全な立体マップとして脳裏に描かれていた。
「あいつら、このまま走ってくると、俺の屋敷も……、俺が今、こうして気持ちよく寝転がってるこのサボり場所も、全部踏み荒らすルートなんだよな」
ヒビキは首の後ろをぽりぽりと掻きながら、視線の先、はるか地平線を見つめる。
「それにさ、あんな十万だか何だか知らないけど、あんな大群がこのまま領地に突っ込んでみろよ。親父や兵士たちが死に物狂いで戦って、怪我人が出て、その後片付けだの、街の復興だの、亡くなった奴らの慰霊碑建立だの、頑張った兵士たちの慰労会だのって……。絶対に、俺の貴重なサボり時間が数ヶ月、いや下手したら年単位で奪われる。確実に挨拶回りだの何だのに引っ張り出される。……想像しただけで、本当に最悪だ」
そう、ヒビキにとって、国が滅びようが領地が危機に陥ろうが、そんなことは二の次、三の次。
彼にとっての最大の危機、何よりも許しがたい天災とは、自らが勝ち取った「穏やかで怠惰な、絶対的なサボり時間」が、外部のくだらない面倒事によって一秒たりとも奪われること。それこそが、彼の逆鱗そのものであった。




