61話 パニックに陥る辺境伯領と、父親の決意
パニックに陥る辺境伯領と、父親の決意
他国との国境を預かり、国防の盾として君臨する辺境伯領。
その血塗られた防衛の歴史において、魔獣の『大津波』とは、単なる自然災害の範疇を遥かに超えた超巨災であった。それはこの地に生きる全ての生命にとって、一瞬にして日常を地獄へと変える「国家滅亡」の終止符であり、それに伴う「全生命の容赦なき蹂躙」を意味していた。
北方国境の最前線、険しい岩肌の頂にそびえ立つ、堅牢な石造りの監視塔。
そこで哨戒任務に当たっていた歴戦の冒険者たちは、水平線の彼方、険しい山脈の境界線から湧き上がってきた、天を埋め尽くさんばかりの漆黒の土煙を目撃した。
ゴゴゴゴゴゴゴォォォォォ……ッ!!!
大気を引き裂く重低音が、重い地響きとなって鼓膜に直接、物理的な衝撃として叩きつけられる。
双眼鏡を覗き込んだ若き哨戒兵の手は、見たこともないほど激しく小刻みに震え、冷たい汗がその額からボタボタと流れ落ちた。
レンズの先、山を越え、谷を埋め尽くし、生い茂る大森林を一本残らずなぎ倒しながら凄まじい速度で迫り来るのは、狂乱の光をその瞳に宿らせた無数の魔獣の群れ――。牙を剥き出しにし、おぞましい涎を垂らし、ただ目の前の世界を噛み砕き、蹂躙することしか頭にない、十万を超える生ける暴力の津波が、大地を覆い尽くしていた。
「大、大津波だァァァーーーーッ!!!」
喉が裂けんばかりの、恐怖に染まった絶望の叫びが監視塔に響き渡る。
「今すぐ防衛の鐘を鳴らせ! 限界まで狼煙を上げろ! 伝令の馬を走らせろ、一秒でも早く辺境伯本城へ、全速力で走らせるんだ!! 軍を動かせ! 戦える冒険者を、路頭の荒くれ者に至るまで今すぐ総動員しろォォォッ!!」
国境から放たれた数筋の黒煙が天へと禍々しく立ち上り、泡を吹かせながら街道を激走する伝令の馬が、泥を跳ね上げて走る。
その報せが届いた瞬間、辺境伯領がこれまで保ってきたかりそめの平和は、ガラス細工のように一瞬にして粉々に砕け散った。
「スタンピードだ! 北の山脈が決壊したぞ!」
「嘘だろ……あの魔獣の山を越えて、十万もの大群が押し寄せてくるっていうのか!?」
「急げ、ぐずぐずするな! 女子供、動けない者は全員地下シェルターへ避難だ! 荷物は最低限にしろ、命を最優先にするんだ!」
城下町では非常事態を告げる鐘の音が狂ったように、耳を劈く音量で乱打され続けた。
領民たちは顔面蒼白になり、荷物を抱えてパニックに陥りながら、逃げ惑う。悲鳴と怒号が複雑に交錯し、泣き叫ぶ幼い子供の手を必死に引く親たちの背後には、はるか遠くから響く不気味な地鳴りがじわじわと、だが確実に、逃げ場を塞ぐように近づいていた。
そんな喧騒と狂気が渦巻く中。
辺境伯家の本城・中央作戦会議室は、静まり返るような極限の緊迫感と、息が詰まるほどの重苦しい熱気に包まれていた。
中央に据えられた大きな大理石の円卓。
そこへ重々しい足音を響かせながら歩み寄ったのは、ヒビキの父親である辺境伯、その人であった。
ガシャン、と。
幾多の死線をくぐり抜けてきた、重厚な魔力鋼の鎧がぶつかり合う音が響く。
彼は家宝である蒼銀の甲冑を全身に纏い、その逞しい巨躯を冷徹な鉄の防壁で包み込んでいた。かつて数多の戦場を駆け抜け、他国の軍勢や伝説級の魔獣すらその手で屠り続けてきた男。その厳格な顔からは普段の父親としての厳しさは完全に消え去り、いまや領地と王国の運命を双肩に背負う、冷酷無比な「戦鬼」としての顔が剥き出しになっていた。
その鋭い両瞳は、眼前に迫る確実な死を恐れることなど微塵もなく、ただ冷徹に、戦術マップを見据えている。
「国境を根底から揺るがす、未曾有の大津波だ。……全魔獣の推定数は、およそ十万を優に超える」
辺境伯の冷たく重い一言に、周囲に控える将軍や騎士長たちがごくりと喉を鳴らし、絶望に身体を硬直させた。勝算など、万に一つもあるかどうかという、文字通りの破滅の数字。




