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60話 突如として歪む、世界の境界線(超感知)

突如として歪む、世界の境界線(超感知)


 シアのなめらかで芳しい太ももから伝わる、マシュマロのような柔らかさと蕩けるような体温。アゼルが静寂を崩さずに提供し続ける、陽光を完璧に遮断した涼やかな日陰。


 すべてが甘美で、どこまでも怠惰な、まさに天上の極楽とも言うべき微睡みの時間が、そこには確かに流れていた。芝生を優しくなでるそよ風の音と、シアが愛おしげに黒髪を梳いてくれる指先の感触だけに感覚を委ね、ヒビキはただ穏やかな意識の深淵へと沈み込んでいく。


 しかし。

 その絶対的な平穏の庭は、脳内を暴力的に侵食した、悍ましい拒絶反応のような警告によって一瞬にして引き裂かれた。


キ、ジジジジジジ――ッ!!!


 頭の奥底を極薄の刃物で削り取られるかのような、激しい頭痛を伴うノイズ。

 それは、ヒビキが前世のゲーム知識から引き出し、呼吸をするのと同等に無意識下で常時発動(パッシブ)させ続けていた、超一流の『気配感知』および『探索魔法』の複合観測網が、想定許容量を遥かに超えた致命的な超質量を前にして、激しいシステムエラーを引き起こした合図であった。


 耳の奥で、鼓膜を直接掻きむしられるような不快なバグ音が反響する。

 ヒビキが怪訝に思いながら、半ば強制的に意識を内側へ向け、脳裏に展開した半透過のシステムマップ。


 それは普段であれば、領地の穏やかな輪郭を描き、森や川の位置を青や緑のドットで長閑に示しているだけの、退屈なほど平和な画面であった。

 しかし今、そのマップの遙か北方――領地との境界線を成す、険しい山脈を越えた先の外縁部が、まるで画面の上に赤黒い血のインクを大量にこぼしたかのように、一瞬にして禍々しい赤色一色でベッタリと塗り潰されていく。


(……おいおい。何だこれ、バグか? マップのドットが限界突破して完全に潰れて、視界の端から端まで赤一色になってるぞ)


 ヒビキは重い瞼をわずかに開き、脳裏を埋め尽くす異常極まりない光景に、全身の毛穴がキュッと引き締まるのを感じた。


 ノイズを吐き出し、バチバチと火花を散らす半透過の視界。その赤色に染まった領域を構成しているのは、数え切れないほど無数に密集した、狂乱の「エネミー(敵対存在)」を示す赤点の群れであった。


 十や百、千などという生易しい規模では断じてない。

 何万、いや、十万を超えるのではないかと思える、山脈の向こうに生息するあらゆる凶暴な魔獣たちの命の灯火が、凄まじい熱量と殺意を帯びて、こちらの領地へと雪崩を打って真っ直ぐに進軍していた。


 感知に引っかかる個々の気配は、どれも恐怖に我を忘れて狂い、獣としての理性や生存本能すら放棄している。

 これは、魔獣たちが「お腹が減ったから群れで移動する」といった、生態系に基づいた自然な大移動などでは決してなかった。


 大自然そのものが突如として狂気という名の毒に冒され、その暴虐な渦に巻き込まれたすべての生命が、進行方向にあるすべてを肉片へと踏み潰し、等しく無に帰そうと暴走する天災――。


 そう、この世界のいかなる大国であっても、正面から受ければ国家崩壊すら免れない最悪の大災害、『大津波(スタンピード)』であった。


 ゴゴゴゴゴゴゴゴゴ……ッ。


 はるか北方の方角から、大地を、そして大気の震動を通じて全身の骨を直接揺さぶるような、不吉で重苦しい地鳴りが伝わり始める。


 つい先ほどまで平原を吹き抜けていた心地よいそよ風はピタリと止み、代わりに大気には、無数の猛獣たちが吐き出すおぞましい瘴気と、全てを蹂躙する冷たい死の気配が混ざり合って、じわじわと漂い始めていた。


 せっかく手に入れた、シアの極上の太ももという奇跡の特等席。

 アゼルが淹れてくれる、目覚めの至高の紅茶。

 ヒビキが何よりも愛し、守り抜こうと決意していた「全力でのサボりライフ」を粉々に打ち砕き、最悪の労働へと引きずり込もうとする未曾有の超巨災が、音を立ててすぐそこまで迫っていた。

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