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57話 汚れなき白手袋と、目覚めの紅茶

汚れなき白手袋と、目覚めの紅茶


 翌朝――。


 辺境伯家の広大で絢爛な屋敷の一角、ヒビキの寝室。


 遮光性の高い重厚なカーテンが、まるで意思を持ったかのように極めて優雅に、そして滑らかな動作で静かに左右へと開け放たれた。窓ガラス越しに差し込む、生まれたてのように澄んだ、柔らかで温かな朝の陽光が、寝室の贅沢な調度品やふかふかの特大ベッドを心地よく照らし出していく。


 枕元に音もなく佇むアゼルは、昨夜、月明かりの届かない大森林や荒野で、侵入者たちの魂を概念ごと奈落へと叩き落としていたあの冷酷極まりない悪魔の顔など、微塵も、一ミリたりとも感じさせない、非の打ち所がない完璧なプロフェッショナルとしての笑顔を浮かべていた。


 仕立ての良い漆黒の燕尾服には埃一つなく、スッと押し上げられた眼鏡の奥の瞳は、穏やかで柔らかな深い琥珀色を湛えている。


 そして、彼の両手には、昨日まで他国の密偵たちの魔力回路を根こそぎ引きちぎり、冷ややかに死を振り撒いていたとは到底信じられないほど、一点の染みも、埃のひとかけらすら存在しない、眩いほどに汚れ一つない真っ白な絹の手袋がはめられていた。


「ヒビキ様、本日の目覚めの紅茶でございます。……窓の外をご覧になりますと、本日は雲一つない実によく晴れた青空が広がっております。サボるには最高の1日でございますね」


 そう言ってアゼルは、その白手袋をはめた手で、細かな細工が施された極上のシルバーのトレイを恭しく持ち上げた。

 彼が完璧な角度で傾けた白磁のティーポットから、澄んだ黄金色をした、極上の香りを放つ至高のダージリンティーが、芸術的な弧を描いて注がれていく。湯気と共に立ち上るふくよかで高貴な香りが、一瞬にして寝室の空気を満たし、心地よい眠りの名残を優しく覚ましていった。


 ベッドの上で上半身を起こしたヒビキは、少しだけ肩を回して気怠げに伸びをしながら、アゼルから手渡された美しいティーカップを受け取る。そして、まだ少し眠たげな半開きの目のまま、一口、静かにその温かい紅茶を口に含んだ。


 絶妙な温度。一切の雑味がない完璧な抽出。喉を通った瞬間に胸の奥がじんわりと温まる、至高の一杯。


「……相変わらず、お前が淹れる紅茶は美味いな。本当、よく気が利くよ」


 ヒビキは少しだけ表情を緩めると、ふぅ、と息を吐き出しながら、何気ない調子で言葉を続けた。


「今日もお前のおかげで、外の騒がしい奴らに邪魔されることもなく、何の面倒事も起きずにゆっくりと寝ていられそうだ。助かる」


 それは、ただの感謝。ヒビキにとっては、朝の何気ない、ごく当たり前の日常的な労いの言葉に過ぎなかった。


 しかし。

 その言葉がアゼルの耳に届いた瞬間、その背筋が美しく張り詰め、完璧な執事の笑顔の奥で、彼の魂が歓喜に震えた。


 昨日、主の知らない闇の領域で、全ての害意を持つ害虫どもを完全に排除し、一切の「面倒事」を存在ごとこの世界から消去した自分への、この上ない最高の評価。


 主は、全てを分かっておられる。その上で、私の仕事振りを完璧に認め、最高の賛辞を与えてくださったのだ。


 アゼルにとって、ヒビキの何気ない一言は、天界の創造主が下す「究極の神託」そのものであり、自らの存在意義そのものであった。


「もったいないお言葉にございます、ヒビキ様」


 アゼルは白手袋をはめた右手をそっと胸に当て、昨夜、密偵たちを奈落へ落とした時とは比べ物にならないほど深く、そして魂からの絶対的な忠誠を込めて、優雅に頭を下げる。


「このアゼル、我が身が果てるその瞬間まで、ヒビキ様の静寂と、最高に怠惰な平穏を、あらゆる不浄から完璧にお守りすることを誓いましょう」


 その美しい笑顔の裏で、主の安眠を守るためなら、世界そのものを再び闇の深淵に沈めることすら厭わないという苛烈な決意を秘めながら。執事は今日も、至高の主人に極上の紅茶を捧げ、心からの幸福に浸るのだった。


 アゼルは物静かに、そして非の打ち所がないエレガントな所作で、最敬礼をもって恭しく頭を下げた。

 仕立ての良い漆黒の上着にはシワ一つ寄っておらず、その背筋の角度、指先のミリ単位の位置に至るまで、まさに歴史ある辺境伯家に仕える模範的な最高峰の執事そのものの美しさを体現していた。

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