56話 最上位悪魔の「概念的再起不能(お掃除)」
最上位悪魔の「概念的再起不能(お掃除)」
月光の届かぬ漆黒の闇の中、粉々に砕け散った刃の鉄屑がパラパラと無惨に地面に落ちていく。その静まり返った光景をただ平然と見つめながら、アゼルはスッと極めて優雅で洗練された動作により、眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げた。その薄いガラスレンズの奥深く、底知れぬ深淵のように冷徹な真紅の瞳は、一切の人間的な感情や慈悲を完全に排除し、ただ目の前で怯え震える獲物たちを、まるできれいさっぱり片付けるべき「ゴミ」のように淡々と品定めしていた。
「我が主の穏やかで尊いサボり時間を邪魔しようなどと。万死、いや……億死に値しますね」
アゼルの端正な唇から、凍てつく吐息とともにその絶対的な宣告が零れ落ちた刹那。
ゴゴゴゴゴォォォ……と、世界の境界線そのものが歪み、大気が悲鳴を上げるような重々しい地鳴りが響き渡る。
アゼルの背後の空間が、まるで薄い氷の膜に鋭いヒビが入るかのように、禍々しい漆黒の亀裂となって真っ二つに裂け開いた。その底知れない死の深淵から、物理的な常識や次元の枠組みを根底から無視した、ドロドロとした黒い魔力腕が、うねうねと不気味にうごめきながら数十本も這い出てくる。立ち上る暗黒の瘴気は、触れるだけで周囲の立ち木や硬い地面をたちまち炭化させ、不毛の灰へと変えていく。
「ひ、ひゃああああっ!?」
「逃げろ! 関わるな! あれは人間の枠に収まるような存在じゃない……本物の、魔界の深淵に君臨する最上位悪魔だっ!!」
あまりにも絶望的な次元の差、目の前の男が放つ圧倒的な威圧感の前に、一級密偵としての誇りや小悪党としての浅ましい野心など一瞬にして微塵に吹き飛んだ。彼らは蜘蛛の子を散らすように、四方八方の暗闇へと死に物狂いで逃げ惑う。
だが、アゼルが冷酷に片手を天へと掲げた瞬間、数十本の闇の触腕が、逃走するすべての侵入者たちの首や手足を寸分の狂いなく空間ごと捕らえ、空中へと容赦なく吊り上げた。
しかし、この物理的な拘束など、彼にとっての丁寧なお掃除のほんの序章に過ぎない。
「あなた方には、少々長い、終わりのない悪夢を見ていただきましょうか」
アゼルの細い指先から、精神を直接ドロドロに汚染する紫黒色の魔力が狂気のように奔る。
恐怖を極限まで司る、魔界の最上位精神操作魔法。それが発動した瞬間、密偵たちの脳内に直接、想像を絶する地獄のビジョンが暴力的に叩き込まれた。現実世界におけるコンマ一秒にも満たない刹那の間に、彼らの脳内では「無限にアゼルに蹂躙され、肉体と魂を極微細な塵にまで千切りにされ続ける幻覚」が、何万回、何億回、何兆回とループして超高速再生される。
「ひ、ひぃぃ……っ! お許し、悪魔……っ! 本物の悪魔だあああぁぁぁーーっ!!」
その絶叫は、一瞬にして理性なき獣の、脳が焼き切れた廃人の悲鳴へと変わった。
宙吊りにされた密偵たちは、激しく白目を剥いて全身をガクガクと痙攣させ、喉の奥から汚いよだれをダラダラと垂らしながら、精神の核を完全に粉砕されていく。自らの人格や生きてきた証がバラバラに引き裂かれ、底なしの暗黒の恐怖だけで頭の中がドロドロに塗りつぶされていく。
アゼルの仕事は、どこまでも冷徹かつ、塵一つ残さぬほど完璧だ。辺境伯家に物理的な痕跡を残すことも、我が主の平穏な日常を乱す因子を残すことも、彼の完璧主義が許さない。
吊り上げた男たちの脳内へと、さらに深く不可視の魔力の指先を伸ばすようにして、彼らの魔力回路を根こそぎ焼き切っていく。パチパチ、ジュウ、と神経と魂の回路が直接焦げるような、悍ましい音が闇夜に響く。
そして彼らの脳細胞に刻まれたすべての記憶から「我が主ヒビキへの害意や敵対心」を完璧に消去し、その代わりに「ヒビキという絶対者に対する、魂の最深部に生涯刻まれ続ける根源的な恐怖」へと、強引に書き換えていった。
「あなた方の価値のない魂は、私の偉大なる主を賛美するための肥やしにすらなりません。ただ、この世から消えなさい」
アゼルは、冷酷極まりない、万物を瞬時に凍らせる氷よりも冷たい表情で、もはや人間としての意思を完全に失い、虚ろな肉体の殻だけとなった彼らを見下ろした。
そして、白手袋をはめた指先を、冷ややかに、そして上品に、パチンと鳴らす。
――。
瞬間、侵入者たちの意識、魔力、そして存在そのものの「格」が、この世界から概念的に完全消滅した。
魔力回路を徹底的に喪失し、自我の核を粉々に砕かれた彼らは、二度と自力で立ち上がることも、自らの意思で呼吸をコントロールすることすらできない、生ける廃人と化す。
ボトボトと、糸の切れた壊れ人形のように荒野へと転がり落ちる肉体の抜け殻。
アゼルはそれらの残骸を一瞥することすらなく、懐から静かに取り出した純白のハンカチで、白手袋の指先を一本一本、汚れを拭うように極めて丁寧に拭いた。そして、再び何事もなかったかのように優雅にハンカチをポケットへしまうと、静かに夜の闇へと溶けるように姿を消すのだった。




