55話 笑顔のままで、奈落へ叩き落とす男
笑顔のままで、奈落へ叩き落とす男
夜、月明かりすら届かない、深く鬱蒼とした大森林。
風さえも息を潜めた静寂が支配するその漆黒の闇の奥、あるいは辺境伯領の外縁に果てしなく広がる荒涼とした岩肌の影には、ただならぬ血臭と邪悪な殺意の気配が澱みのように蠢いていた。
そこに潜んでいたのは、ザックの事件後に辺境伯家に対して一方的で理不尽な逆恨みを募らせ、卑劣な闇討ちを企てている不届きな小悪党の残党ども。そして、最弱の腑抜けと侮られていた辺境伯家の三男ヒビキが突如として見せた「急激な実力向上」にただならぬ危機感を抱き、その秘密を暴くために国境を越えて不法侵入してきた隣国の一級密偵たちであった。彼らは隠密・暗殺・情報収集の全てにおいて頂点を極めた、冷酷無比なエリート・スパイ集団である。
「ククク……、最弱と噂される辺境伯の愚息め。あれほどの規格外の力を急に発揮するなど、常識的に考えてあり得ん話だ。必ずや、奴の背後に何かしらの古代の秘宝があるに違いない。それを奪い取り、奴の寝首を掻いてやれば、我が国は計り知れない力を手にすることになる……」
闇の衣に紛れ、冷酷な笑みを浮かべながら獲物の寝所を見定めるドブネズミたち。
呼吸の音一つ、心臓の鼓動一つすら完全に消し去る術式を身に纏い、自らの完全な隠密に絶対の自信を持っていた彼らの、まさにその背後。
かさり、と。
草葉の擦れる音さえ立てず、まるで闇そのものが凝固して人の形を結んだかのように、音もなく一人の男が佇んでいた。
「――おや。こんな夜更けに、我が主の美しい庭を汚すドブネズミどもが這いずり回っているとは。一体何事かと思いましたよ」
静寂を鋭く切り裂くように響いたのは、あまりにも穏やかで、氷のように透き通った、美しく整った男の声だった。
雲の切れ間から差し込んだ僅かな月光を微かに浴びて現れたのは、一分の乱れもない仕立ての良い漆黒のタキシードを完璧に着こなしたアゼルの姿であった。
彼は白手袋をはめた細く長い右手をそっと自らの胸元に当て、まるで貴婦人を舞踏会に迎えるかのように優雅で、極めて物腰柔らかなお辞儀をしてみせる。
しかし、その極上の微笑みの奥。前髪の隙間から覗くアゼルの両瞳は、夜闇の中で不気味に、そして禍々しく、血の赤さよりも深い漆黒の真紅に怪しくギラリと輝いていた。
「なっ……!? いつの間に背後に……っ!」
「しまっ、敵襲だ! 者ども、出会え!!」
一級密偵たちが顔を驚愕に歪め、一斉に飛び退きながら隠し持っていた獲物を構える。
彼らは鍛え抜かれた一流の刺客としての本能で、瞬時に悟っていた。目の前に立つ、麗しき執事の皮を被った男が、自分たちなど足元にも及ばない「本物の底知れない怪物」であることを。全身の毛穴が開き、冷や汗が引きも切らずに噴き出して衣服を濡らしていく。
「……消えろっ」
刹那、密偵たちの放った数条の影が、闇夜を稲妻のごとき速度で切り裂いて殺到した。
空間の座標を歪めるほどに高密度に圧縮された「高威力隠密魔術」が放たれ、同時に死毒をべっとりと塗られた無音の「暗殺刃」が、アゼルの喉元と心臓を寸分の狂いなく穿たんとする。国の一つや二つ、裏から容易く崩壊させるプロフェッショナルの同時波状攻撃。
しかし、アゼルはその優雅な立ち姿を微塵も崩さず、避ける素振りすら見せなかった。
「ふふ……。その程度ですか。我が主の安眠を妨げる価値すら、あなた方にはないようですね」
アゼルは極上の笑みを崩さないまま、すっと白手袋の人差し指を一本だけ、前に突き出した。
カラン、と。
虚空に、見えない極薄のガラスが触れ合うような、冷たく硬質な音が響く。
次の瞬間、アゼルの指先から、深淵の闇を凝縮したかのような漆黒の魔力障壁がミリ単位で展開された。
放たれた一級の暗殺魔術も、絶対の殺傷力を持つ暗殺刃も、その指先一枚の盾に触れた瞬間、パキパキと音を立てて結晶化し、光を失った灰のような塵へと無惨に崩れ去っていった。その絶対的な防壁は、暴風雨を遮る大傘のように、アゼルの身に埃一つ触れさせない。
「ば、馬鹿な……っ! 我が国の至高の術式が、指先一つで……!? お前、一体……何者だっ!?」
恐怖に震え、膝をガタガタと鳴らす密偵たち。
彼らの目に映る執事アゼルは、ただ優雅に佇みながら、一切の手加減も慈悲もなく、静かに奈落の底へと彼らを叩き落とす準備を進めているのだった。




