53話 平原の極上膝枕と、サボり魂の共鳴
あのおなごが帰った後の、猛烈なすりすり(2)
腕に伝わるあまりにも暴力的で、かつ柔らかすぎる感触に理性を削られそうになりながら、ヒビキは重い眼差しを彼女へと向けた。
「お前、魔王女としての威厳はどこに置いてきたんだよ……。一応、これでも周囲に衛兵たちがいるんだけど」
呆れ返った、いつもの気怠げなヒビキの指摘。
だが、シアは全く臆することなく、むしろ当然と言わんばかりに胸を張り、さらにヒビキの腕を強く抱きしめた。
「そんなもの、ここに持ってくるわけがありませんわ! シアは、ヒビキ様以外の有象無象の前では、今でも冷酷無比で血も涙もない魔界の支配者です。でも……ヒビキ様の前だけは、シアはただの、一番可愛くて無害な女の子でありたいのです!」
シアはそう言い放つと、嬉しそうに目を細め、白く柔らかな頬をヒビキの肩口に何度も、猛烈な勢いで「すりすり」と寄せ始めた。まるで、待ち焦がれた主人にようやく甘えることを許された、愛らしい仔犬のようである。
だが、その至福の甘えタイムの最中。
シアの鋭い鼻腔が、ある「微かな異変」を鋭敏に察知した。
ピクッ、と。
シアの愛らしい眉が不自然に跳ね上がる。
ヒビキの上着の襟元。そして彼の温かい首筋。そこから、先ほどまで彼に全力で抱きついていたリサーナの、あの甘くて上品な、しかしシアにとっては極めて不快な薔薇の香水の香りが、微かに、けれど確かに残って漂っている。
「……むぅ!」
一瞬にして、シアの顔があからさまな不満と嫉妬の表情に塗り替えられた。そのラベンダーカラーの瞳が、ふつふつと燃え上がる独占欲で妖しく光る。
「許せませんわ……! あのおなごの安っぽい匂いが、大切なヒビキ様の身体にこびりついているなんて……! 今すぐに、このシアが上書きいたしますわ!!」
「おい、何を――」
ヒビキが制止の言葉を口にするよりも早く、シアの猛烈な「匂い消し運動」が開始された。
彼女は自分の美しい銀髪をヒビキの顔や胸元に何度も擦りつけ、さらには自らの細い首筋や、甘い熱を帯びたなめらかな肌を、ヒビキの上着へと力任せに押し当てて擦り込んでいく。
シアが動くたび、彼女の体から立ち上る、魔界に咲き誇る魅惑的な黒薔薇のような、濃厚で、そして嗅ぐ者の魂を甘く狂わせるほどの香りが、バルコニーを支配していった。リサーナの香水の匂いを完全に駆逐し、自分の香りだけでヒビキの全てを包み込もうとする、剥き出しの、そして可愛らしい独占欲。
「ふふん! これでヒビキ様は、頭の先から爪先までシアの香りでいっぱいですわ!」
一通りすりすりを終えたシアは、満足げに胸を張り、勝ち誇ったような満面の笑みを浮かべた。
一方、最初から最後まで嵐に巻き込まれたような形のヒビキは、濃厚な甘い香りに頭をクラクラさせながら、深いため息をつく気力すら失っていた。
(……あいつが帰ったと思ったら、次はこっちか。本当に、俺の平穏なサボりライフはどこにいっちまったんだよ……)
腕にぶら下がる、至高の柔らかさと重み。
どこまでも騒がしく、けれど抗えないほどに甘い日常の中で、ヒビキはただ、早く自分の部屋のふかふかなベッドに倒れ込みたいと、それだけを心から切望するのだった。
平原の極上膝枕と、サボり魂の共鳴
翌日、朝から屋敷の中で繰り広げられる説教や、次から次へと舞い込んでくる領地運営の面倒な書類仕事から逃れるため、ヒビキは一切の躊躇なく「脱走」を決行した。
目指したのは、領地の外縁に広がる、誰もやってこない静かな平原。青々とした芝生が波のように風に揺れ、ただ穏やかな太陽の光だけが降り注ぐ、彼にとって最高のサボりスポットである。
しかし、その目的地へとたどり着いたヒビキは、緑の絨毯の上に広がる「ラベンダー色の花」を認めて、わずかに足を止めた。
「ふふ、お待ちしておりましたわ、ヒビキ様」
なんと、そこに先回りしていたのは、愛らしい魔界の王女シアであった。
彼女はそよ風に銀髪をなびかせながら草の上にちょこんと座り、自身が纏う美しいラベンダー色のドレスの裾を、優しく、そして丁寧に広げて待っていた。




