52話 あのおなごが帰った後の、猛烈なすりすり
夕暮れのバルコニーと、本当の約束(2)
傷ついた、か。
ヒビキには、この世界がかつて遊んだ「ゲーム」の世界であり、自分がどのような立ち位置のキャラクターであるかという、どこか冷めた転生者としての知識と余裕があった。そもそも、最弱と罵られようが無能と吐き捨てられようが、それによって「周囲の期待から外れ、全力でサボる大義名分」ができるなら好都合だとすら本気で思っていたのだ。
だから、傷ついたことなど、最初から一瞬たりとも存在しない。
ヒビキはふっと、どこか柔らかく、すべてを許容して包み込むような温かい笑みをその端正な口元に浮かべた。いつもより少しだけ、優しげに目を細めて彼女を見る。
「そんな大昔のこと、俺はとっくに忘れたよ。いちいち覚えておくのも、脳のメモリの無駄だしな」
ヒビキはそう言って、照れ隠しのようにほんの少しだけ視線を夕日の彼方へとそらすと、不器用に、けれど確かな温もりを込めて言葉を続けた。
「それよりも……お前がこうして、俺の作った、ちょっと形が不揃いな……いや、めちゃくちゃ美味いお菓子を食べて、こうして隣にいてくれるなら、俺はそれでいいさ」
「ヒビキ……っ!」
これ以上ないほどに甘く、そして自分の存在すべてを肯定してくれる、奇跡のような言葉。
リサーナの胸の高鳴りと、抑えきれないほどの愛おしさは、瞬く間に彼女の許容量を完全に突破した。
もう、令嬢としての建前も、厳しい作法も、溢れかえる羞恥心も、何もかも関係なかった。
リサーナは弾かれたようにヒビキの胸へと飛び込み、今度は何の躊躇いもなく、彼の首元にその細くしなやかな両腕をギュッと回して強く、強く抱きついた。
ぎゅう、と、お互いの体温が衣類越しにダイレクトに伝わり、重なり合う。
リサーナはヒビキの首元に涙に濡れた顔をうずめ、彼の確かなぬくもりを、自分を守ってくれるその広い胸板を、五感のすべてで貪るようにして受け止め、幸せを噛みしめていた。微かに香る彼の素朴な匂いが、彼女の心を芯から甘く溶かしていく。
かつてお互いの間に頑なな壁として存在していた、あの冷たくトゲトゲしかった空気は、夕暮れの暖かな残光の中に美しく溶けて消え去っていく。
ヒビキは一瞬だけ驚いたように目を見張ったものの、すぐに諦めたように小さなため息をつくと、空中で彷徨っていた自らの腕をゆっくりと下ろし、胸の中で愛おしそうに泣きじゃくる幼馴染の華奢な背中を、優しく、そして壊れやすい宝物を守るようにそっと力強く抱きとめるのだった。
茜色の美しい光が、どこまでも優しく、そして永遠に続いてほしいと願うほどに甘く、重なり合う二人を包み込んでいた。
あのおなごが帰った後の、猛烈なすりすり
カラカラと車輪が石畳を鳴らし、リサーナを乗せた贅沢な馬車が、夕暮れの街道の彼方へと小さくなって消えていく。
見送りを終えた瞬間。
それまでヒビキの少し後ろで、いかにも「お淑やかで良家のお嬢様」のフリをして、上品に手を前で組み静かに佇んでいたシアの仮面が、音を立てて剥がれ落ちた。
「ヒビキ様ぁぁぁ……っ!」
切なげな、けれど弾丸のような勢いを帯びた声が響いたかと思うと、ラベンダーの華やかで高貴な香りが大気を揺らした。
次の瞬間、シアはその白く美しい身体をヒビキに向かって容赦なく突撃させた。ただの衝突ではない。彼女はヒビキの右腕を自らの両手でひったくるように奪い取ると、その豊かな双丘の間に深く、それこそ骨の感触が消えてしまうのではないかと思えるほど強く押し込み、むぎゅっと抱きしめた。
「シア、とっても、とっても我慢いたしましたわ! あのおなごと仲睦まじくお話しされるヒビキ様をすぐ後ろで見せつけられて……胸が、胸が張り裂けて粉々になってしまいそうでしたの……っ!」
上目遣いに見上げてくる彼女の、吸い込まれそうなほど美しい瞳には、今にも零れ落ちそうな涙がうるうると溜まっている。ふっくらとした唇をこれでもかと尖らせ、必死に不満を訴えかけるその姿には、およそ恐るべき強大な存在としての影など微塵もなかった。




