50話 辺境伯夫妻の「温かい勘違い」とからかい
辺境伯夫妻の「温かい勘違い」とからかい
中庭での騒動を終え、ようやく静寂を取り戻した城塞の回廊を、二人は並んで歩いていた。
魔獣の恐怖から完全に解放されたリサーナは、先ほどヒビキの胸元に飛び込んだ余韻がまだ冷めやらないのか、そのなめらかな頬を林檎のように赤く染めたままだ。そして、繋がれた手こそ離したものの、今度はヒビキの上着の裾を、白く小さな指先でぎゅっと、まるで迷子を恐れる子供のように愛らしく握りしめていた。
ヒビキはといえば、いつもの通り気怠げに視線を漂わせ、頭の中では「どうやってこの後の時間を全力でサボり、ふかふかのベッドへ滑り込むか」という究極の怠惰計画を練り上げている。
しかし、そんな二人の甘やかな平穏は、回廊の角を曲がった瞬間、鼓膜を震わせる爆音によって容易く打ち砕かれることとなった。
「おっ、噂をすれば、ちょうど主役たちの登場だな!」
その場にそびえ立っていたのは、岩石を思わせる巨躯に豪奢な毛皮の外套を羽織ったヒビキの父親――辺境伯その人であった。
そしてその隣には、彼とは対照的に細身で、いかにも知的な文官といった佇まいを見せる、リサーナの父親である伯爵が並んで立っていた。国境の要たる二つの巨頭が、なぜかこのタイミングでばったりと出くわし、談笑していたらしい。
父親たちの視線が、瞬時にヒビキとリサーナの「密着した状態」へと注がれる。
ヒビキの裾をぎゅっと握りしめたまま、恥ずかしさで俯く真っ赤な顔のリサーナと、それを特に気にする様子もなく(単に引き剥がすのが面倒なだけだが)なすがままに歩く気怠げなヒビキ。
その光景を目にした瞬間、辺境伯は目を見開き、次の瞬間にはその頑強な胸板を大きく震わせて、城塞の天井を突き破らんばかりの大爆笑を響かせた。
「ガッハハハ!!! おい見ろ、伯爵! 本当に仲が良いな、こいつらは! これではどちらが屋敷の主か分からんぞ!」
伯爵もまた、眼鏡の奥の細い目をさらに細め、実に嬉しそうに、そしてからかうような温かい微笑を浮かべて頷く。
「いやはや、本当に。あれほど頑なだった我が娘が、ヒビキくんの後ろをあのように嬉しそうについて回るとはな。これはもう、実質的に婚約したようなものではないか?」
「ガッハハ! 全くだ! すぐにでも神殿への報告書を用意せねばならんな!」
大の大人が二人して、寄ってたかって楽しげに囃し立てる。
その容赦のないからかいの集中砲火を浴びたリサーナは、いよいよ頭のてっぺんから物理的に蒸気が出るのではないかと思えるほど顔を真っ赤に染め上げ、オロオロと両手をバタつかせた。
「ち、違います! お父様、辺境伯様! まだ、その……そこまでは、そのような破廉恥な関係では……っ!」
声が裏返り、水色のドレスの裾を自ら踏みそうになりながら必死に弁明するリサーナ。
そのあまりに純情で可愛らしい暴走ぶりに、父親たちの笑い声はさらに一段と大きくなって回廊を揺らす。
一方、そんな大騒ぎの渦中に置かれたヒビキは、もはや表情を動かす気力すら失っていた。
じわじわと外堀が埋め立てられ、自分のあずかり知らぬところで「婚約」という、人生における最大級の面倒な労働イベントが爆速で構築されていくのを感じ、彼はただ、長く、今日一番の深い、重いため息を吐き出した。
「はあ……。面倒くさい……」
ヒビキは無意識に、片手で顔を覆って頭を抱える。
ただ静かに、誰にも邪魔されずにゴロゴロしたいだけなのに、なぜ周囲はこれほどまでに自分を騒がしい方向へと引きずり込もうとするのか。
そんな彼の絶望を「照れ隠し」と都合よく受け取ったリサーナの父親は、ふっと表情を和らげると、一歩前に進み出てヒビキの肩にそっと手を置いた。その瞳には、大切な愛娘を託すに値する男への、深い信頼と慈愛が満ちていた。
「ヒビキくん。我が娘は少し気が強くて不器用なところがあるが……どうか、よろしく頼むよ」
それは、一人の父親としての、偽りのない心からの願い。
「え、あ、はい……」
その重みに断る労力すら放棄したヒビキが、半ば投げやりに、けれど肯定とも取れる生返事を返した瞬間。




