48話 暴走魔獣と、一瞬のプロテクト
暴走魔獣と、一瞬のプロテクト
手を繋ぎ、心地よい静寂の中で城塞の中庭を歩いていた、その時だった。
突如として、張り詰めた城塞の空気を引き裂くような、轟音と金属の破砕音が響き渡った。
「おい、嘘だろ!? 他国から贈られた『暴嵐の魔獣』の拘束用魔導鎖がちぎれたぞ!」
「訓練場から脱走した! 中庭の方向へ向かっている! 総員、武器を執れ!」
怒号と、石畳を激しく削る荒々しい爪の音が、不気味な地鳴りとなって近づいてくる。
角を曲がって姿を現したのは、全身に鋭い棘を生やし、禍々しい赤い眼光を放つ、家屋ほどもある巨大な魔獣だった。口端からよだれを撒き散らし、完全に理性を失って暴走している。
「なっ……」
リサーナの顔から、一瞬にして血の気が引いた。
周囲の衛兵たちが「リサーナ様を下がらせろ!」「防衛陣形を展開せよ!」と必死に叫ぶ声が遠くに聞こえる。
迫り来る圧倒的な質量と狂気。その光景を目にした瞬間、リサーナの脳裏に、数日前のザック事件の悍ましい記憶――あの、なす術なく組み伏せられ、死を覚悟した極限のトラウマが鮮明にフラッシュバックした。
全身の血が凍りついたように冷たくなり、喉は張り付き、指先一つ動かすことすらできずにその場でへたり込みそうになる。
だが、次の瞬間。
視界が、ふわりと遮られた。
リサーナの前に、一切の躊躇なく無言で割って入った、聞き慣れた上着の翻る音。
ヒビキだった。
彼は、いつもと変わらない気怠げな猫背のまま、ただ迫り来る巨大な魔獣に対して、スッと白い片手をかざした。
「グルアアアアアアアア!!!』
魔獣が大地を爆砕しながら、質量と速度の暴力をそのままに突進してくる。
衝突まで、あと数センチ――という瞬間。
キィィィン、と。
耳条に心地よい、澄んだ高音が響き渡った。
ヒビキが展開した、極小の『結界魔法』。
それは、突進してきた巨大な魔獣の鼻先を、まるで見えない極厚のガラス一枚隔てたかのように、完全に、そして完璧に受け止めてみせた。
どれほどの衝撃が加わろうとも、その薄い光の膜はビクともしない。魔獣は、目に見えない絶対の壁に激突し、自らの突進力で首の骨を鳴らしながら、その場に虚しく静止していた。
衝撃の余波すら、ヒビキの後ろにいるリサーナには届かない。彼の広い背中が、すべての脅威を完璧に遮断していた。
「おいおい、暴れるなよ。せっかくの静かな散歩が台無しだろ」
ヒビキは、ふわぁ、とあくび混じりに退屈そうに呟いた。
そして、かざしていた手の指先を、まるで子供が玩具に悪戯でもするかのように、軽く「チッ」と弾いてみせた。
ドンッ!!!
ただのデコピンのような、あまりにも簡素で適当な動作。
しかし、そこから放たれた衝撃波は、巨大な魔獣の脳天を正確に撃ち抜き、その巨躯を容易く浮き上がらせて背後の地面へと叩きつけた。
魔獣は、哀れな悲鳴をあげる暇すら与えられず、一撃で白目を剥いて地響きと共に昏倒し、完全に沈黙した。
静寂が、再び中庭を包み込む。
駆けつけた衛兵たちは、武器を構えた姿勢のまま、開いた口が塞がらない様子で硬直していた。
リサーナは、目の前に立つ、少し眠たげに肩を回す少年の背中を、ただ茫然と見つめていた。
私を、この世のすべてから守ってくれる、絶対的な背中。
怒りもせず、誇りもせず、ただ息をするように当たり前に奇跡を体現してみせる圧倒的な力。
(ああ……。私の、私の好きな人は……。世界の理さえも容易く踏み躙る、本物の英雄なんだわ……)
恐怖は、いつの間にか跡形もなく消え去っていた。
胸を焦がすような恍惚感と、言葉にできないほどの畏敬。それらがドロドロに混ざり合い、リサーナの琥珀色の瞳は、これまでとは比べ物にならないほど熱く、深く、ヒビキの背中へと奪われていく。
ただただ、余計な戦闘を長引かせてサボり時間を削られたくなかっただけのヒビキ。彼は、背後から突き刺さる、熱烈を通り越してどこか信仰に近い令嬢の視線に、やはりこれっぽっちも気づいていないのだった。




