47話 軍事拠点の散歩と、小さな手の温もり
軍事拠点の散歩と、小さな手の温もり
国境線の最前線にして、一国を左右するほどの軍事力を誇る辺境伯家の城塞。
公爵家すら凌駕する権威を体現したその場所は、切り立った黒つやのある岩肌と、幾重にも連なる強固な外壁で囲まれており、そこにあるだけで外敵を圧倒するような、重々しく張り詰めた威容を誇っていた。
その冷徹な軍事拠点の回廊を、二人の人影が並んで歩いていた。
かつて、この城塞にやってくるたび「田舎染みた不潔な場所」だと傲慢に鼻で笑い、周囲を威圧するような態度を隠さなかったリサーナの姿は、そこには影も形もなかった。
リサーナは、ヒビキの右肩から半歩ほど後ろ、彼が歩くことで生まれる柔らかな風を追うようにして、ピタリと寄り添いながらついて歩く。
すれ違う、重厚な甲冑を纏った衛兵や鍛え抜かれた騎士たちが、ヒビキの姿を認めた瞬間に直立不動となり、胸元に拳を当てて最敬礼を捧げていく。その彼らの瞳に宿る、ただの貴族の令息に対するものとは明らかに違う、神話級の怪物に対する底知れない畏怖と、そして絶対的な敬意。
その光景を横目で見るたび、リサーナは胸がぎゅっと締め付けられるような感覚に陥っていた。
(この人は、私が想像もできないほど重い責任と、恐ろしいほどの現実を、その若い背中にたった一人で背負っているのね……。それなのに私は、以前、なんて愚かで無知な言葉をこの人に投げかけてしまっていたのだろう)
過去の己の未熟さと傲慢さが、鋭い棘となって彼女の胸に深く突き刺さる。
隣を歩くヒビキの横顔が、急に遠く、そして手の届かない存在のように思えて仕方がなかった。もし、あの時の非礼を彼が心の底でずっと許しておらず、ある日突然、自分の目の前から静かに消え去ってしまったら――。
その破滅的な想像が頭をよぎった瞬間、リサーナの胸は恐怖で張り裂けそうになった。
「ねえ、ヒビキ……」
蚊の鳴くような、今にも消えてしまいそうな震える声。
リサーナは、彼に冷たく拒絶され、振り払われることを何よりも恐れるように、深く、深く俯いた。
そして、白く細い指先を強張らせながら、すれ違いざまに、ヒビキが着ている上着の裾を、キュッと小さく、祈るような力加減で掴んだ。
トントン、と、裾を引かれたヒビキが、その眠たげな足を止める。
「わたし……もう絶対に、あなたの前で余計なことは言わないわ。あなたを傷つけるような、バカにするような言葉なんて、二度と……。だから……」
リサーナは、涙で限界まで潤んだ琥珀色の瞳を必死に押し上げ、ヒビキの顔を見上げた。
長い睫毛が細かく震え、その瞳の奥には、彼に嫌われることを極限まで恐れる、一途で不器用な少女の、剥き出しの心が揺れている。
「だから……わたしのこと、嫌いに、ならないでね……?」
絞り出すようなその懇願。
対するヒビキは、いつもと変わらない起伏のない調子で、ただ少しだけ困ったように、呆れたような溜息を静かに吐き出した。
「そんな昔のこと、別に気にしてねえよ。そもそも、いちいち怒るのって、エネルギー使うから面倒だしな」
彼にとっては、ただの「省エネ主義」による本音の言葉だった。怒るのも憎むのも、彼にとっては労働に等しく、そんなことに割くリソースは1ミリも残っていないという、ただそれだけの日常。
だが、その素っ気なくも確かな赦しの言葉に、リサーナの目から、堰を切ったようにポロポロと涙がこぼれ落ちる。
ヒビキはそれ以上何も言わず、自分の上着の裾をぎゅっと握りしめていた彼女の、驚くほど小さくて、そして冷たく冷え切ってしまった手を、自らの掌で優しくそっと包み込んだ。
おや、と思うほどの、華奢な手の冷たさ。
ヒビキはそのまま、その小さな手を自分の体の方へと、拒むことなく優しく引き寄せてやる。
「っ……」
体温が重なり合う、その優しい温もり。
リサーナは驚きに目を丸くした直後、今度は嬉しさと恥ずかしさで顔を真っ赤に染め、彼の腕に自らの体をぎゅっと預けるようにして、静かに、しかし力強くその手を握り返すのだった。




