45話 お屋敷テラスの「不器用な贈り物」
お屋敷テラスの「不器用な贈り物」
抜けるように青く澄み渡った空。初夏の柔らかな風が、辺境伯家の広大な中庭の木々を優しく揺らしている。
ヒビキはいつも通り、誰の目にも触れにくいお気に入りの場所――屋敷の裏手にひっそりと佇むテラスのソファに寝転がっていた。クッションに深く身体を沈め、ただ流れる白い雲を目で追いながら、至高の「サボり時間」を満喫している。
このまま昼寝に落ちてしまおうか。そう考えて微かに目を閉じた瞬間、トントン、と遠慮がちで軽やかな靴音が、石畳の床に響き渡った。
「あの……、ヒビキ?」
聞こえてきた愛らしい声に、ヒビキは億劫そうに片目を開けた。
視界に入ってきたのは、まるで夏の妖精のように可憐な、淡い水色のドレスに身を包んだリサーナの姿だった。
普段のきっちりとした装いとは異なり、少しだけおめかししたような、ふんわりとしたフリルが風に揺れている。彼女は小さな胸元で、藤で編まれた可愛らしいバスケットを、まるで世界で最も貴重な宝物でも扱うかのように一生懸命にぎゅっと抱きかかえていた。
リサーナはヒビキの眠たげな視線とぶつかった瞬間、ピクッと肩を震わせ、白くなめらかな頬を一瞬にして熟したリンゴのように赤く染め上げた。
「あ、あのね……これ。その……少し、また……自分で焼いてみたの。食べてみて、欲しいなって……なんて……」
恥ずかしさに耐えるようにぎこちない動作で、彼女はバスケットを差し出した。
開けられた蓋の隙間から漂ってきたのは、焦げ茶色の香ばしいバターと、ほんのり甘い砂糖の、どこか不器用で温かい香り。
ヒビキが怪訝そうに中を覗き込むと、そこには少しずつ形の不揃いな、しかし一生懸命に型抜きされたことが伝わってくる手作りのクッキーが並んでいた。端がわずかに焦げているものもあるが、どれもこれも驚くほど丁寧に作られている。
断るのも面倒なヒビキは、ソファに上半身を起こすと、その中から一枚を手に取って口へと運んだ。
サクッ、と素朴な音が静かなテラスに響く。
口いっぱいに広がる、濃厚なバターの甘みと、少し焼きすぎた部分の香ばしさ。見た目以上に、丁寧に、何度も練習を重ねて作られたことが、その素直な味からよく伝わってきた。
「……まあ、今回も悪くないんじゃないか。美味いよ」
嘘偽りのない、ヒビキのいつもの淡々とした感想。
だが、その一言がリサーナの耳に届いた瞬間、彼女の表情はまるで魔法をかけられたかのように、ぱっと大輪のひまわりが咲いたかのように輝いた。
嬉しさのあまりにきゅっと胸の前で小さな両手を合わせ、心臓の鼓動が衣服越しに伝わってきそうなほど、本当に、心から幸せそうに微笑む。
「本当……!? よかったぁ……っ」
その天使のような笑顔に、ヒビキは無意識に気まずさを覚え、目を逸らして残りの半分を口に放り込んだ。
その時だった。
「あ……」
リサーナが、小さく声を上げた。
ヒビキの端正な口元に、ほんの少しだけ、小さなクッキーの屑が白く付着していたのだ。
普段の彼女であれば、ハンカチを差し出すか、口頭で指摘するだけで終わっていただろう。だが、今の彼女は、ヒビキへの感情が限界突破してしまっていた。半分無意識のままに、前回にヒビキの唇の感触を思い出してしまい、まるで吸い寄せられるようにその華奢な身体がスッと前へ傾く。
そっ、と。
彼女の温かく柔らかい指先が、直接、再びヒビキの唇の端へと触れた。
あまりにも不意な指先の感触に、ヒビキが驚いて身を固くした瞬間、リサーナは拭い取った屑のついた自らの人差し指を、何気なく自分の口元へと運んでしまった。
「はむっ……」
ちいさな唇で、自分の指についたクッキーの屑を、再び美味しそうに食べてしまう。
カチリ、と世界の時間が静止した。
触れ合っていた空気が、にわかに熱を帯びる。
ヒビキはただ呆然とリサーナを見つめ、リサーナは自分の指先を見つめたまま、彫像のように硬直していた。
(――あ、また……)
脳内で、凄まじいまでの論理的帰結が導き出される。
ヒビキの唇に触れた指。その指を、自分が今、口に含んだ。
つまり、これは、間接的、に――。
(ひ、ひゃあああああああああああああああーーーーーっ!?!?)
次の瞬間、リサーナの顔は赤を通り越して、まさに火山の噴火のごとく熱線を放ちそうなほど真っ赤に変色した。頭のてっぺんから物理的に蒸気が出ているのではないかと思えるほどのオーバーヒート。
「あ、う、あの、ち、違うの! これは、ただの、その……っ!」
オロオロと両手を狂ったようにバタバタと振るわせ、視線は天と地を激しく往復する。あまりのパニックに、テーブルの上に用意されていたお茶のカップをひったくるように掴むと、恐ろしい勢いでがぶがぶと飲み干し始めた。上品な令嬢の姿など、どこにもない。
「ゲホッ、ごふっ……! あ、あの、わ、わたし、急用を思い出してっ! ごめんなさいっ、お邪魔しましたぁぁぁっ!!」
空になったカップをガタガタとテーブルに叩きつけ、リサーナは水色のドレスの裾を翻し、文字通り脱兎の如き勢いで走り去っていった。
後に残されたヒビキは、静寂が戻ったテラスで、一人静かに自分の唇に触れた。
「……何がしたかったんだ、あいつ」
ただ呆れるばかりのヒビキであったが。
――その夜。
伯爵邸の自室のベッドの上で、前回と同じようにリサーナは枕を何度も何度も激しく殴りつけ、掛け布団に顔をうずめて芋虫のように「あうぅぅぅー! わたしのバカ! 何やってるのよぉぉ!」とのたうち回り、朝が来るまで悶え散らかす羽目になったのを、ヒビキが知る由もなかった。




