44話 返された上着と、消えた棘
返された上着と、消えた棘
あの大森林での、ザックによる卑劣な襲撃から数日が経過した。
辺境伯家の広々とした応接室。窓から差し込む柔らかな光が、丁寧に磨き上げられた調度品を白く照らしている。普段であれば、傲慢に鼻で笑い、周囲を威圧するような態度でこの部屋に乗り込んできたはずの少女が、そこにはいた。
リサーナ・フォン・アストレア伯爵令嬢。
しかし、今日の彼女に、かつて周囲を寄せ付けなかったあの棘のような鋭さは、微塵も残っていなかった。
リサーナは上質なソファーの端に、まるで壊れやすい硝子細工を扱うかのように、ちょこんと小さく背筋を伸ばして腰掛けていた。膝の上には、幾重にも丁寧に折り畳まれ、美しくクリーニングされた上着が恭しく乗せられている。
カタカタ、カタカタ。
静まり返った室内に、不自然なほど細かく、陶器の擦れ合う音が響いていた。リサーナが両手で握りしめた紅茶のカップが、彼女の極度の緊張を証明するように、せわしなく震えているのだ。一口すする余裕すらなく、ただただ、扉が開くその瞬間を待ち侘びるように見つめ続けていた。
カチャリ、と静かに真鍮のドアノブが回る。
ヒビキが、いつも通りの、どこか眠たげでだるそうな足取りで部屋に足を踏み入れた。
その瞬間、リサーナは弾かれたように立ち上がった。その白い頬は、まるで熟した林檎のように一瞬で鮮やかな朱色に染まり、耳たぶまでが熱を帯びていく。
「あ、あの……!」
震える両手で、膝の上にあった上着を恭しく、差し出すように掲げる。リサーナはヒビキの視線をまともに見返すことすらできず、ただその場に深々と頭を下げた。
「本当に、ありがとう……っ! それと……その、今までのこと、本当に、ごめんなさい……っ!」
喉の奥をきつく締め付けられたような、掠れた、けれど芯からの悔恨と感謝が混ざり合った声だった。これまでの非礼を恥じ、自分を救ってくれた少年への、偽りのない心からの謝罪。
対するヒビキは、いつもと変わらないマイペースな調子で、ただ眠そうに目をこすりながら歩み寄り、その上着へと手を伸ばした。
「……別に。気にしてないから。クリーニングまでして返してくれたなら、それで十分だろ」
面倒ごとが長引くのを嫌う彼にとっては、これが最大限の気遣いであり、日常に戻るためのごく普通の受け答えだった。
しかし、そのあまりにも素っ気なく、起伏のない声音は、リサーナの胸にちくりと冷たい痛みをもたらした。
(やっぱり、まだ私のことを怒っているのよね……。あんなに酷い態度を取っていたのだから、当然だわ……)
リサーナはきゅっと唇を噛み締め、長い睫毛を伏せてしゅんと肩を落とした。先ほどまでの赤みが嘘のように引き、不安に満ちた表情で自らの指先を見つめる。ヒビキに軽蔑されているのではないかという恐怖が、彼女の小さな胸を容赦なく締め付けていた。
そんな彼女の内心の嵐など露知らず、ヒビキは受け取った上着を軽く広げ、その仕上がりに目を向けた。一寸の皺もなく完璧に当てられたアイロンの跡。リサーナ自身が、どれほど心を込めてこの上着を整えたかが一目で伝わってくる。
だが、ヒビキの鼻腔をくすぐったのは、その美しい仕上がりだけではなかった。
ふわりと、上着の繊維から漂い立つ、甘く華やかな香り。
それは、リサーナが日頃から愛用している、薔薇の蕾を絞り出したかのような、ほんのりと甘い最高級の香水の香りだった。
普段、香水などという洒落たものとは無縁の「省エネライフ」を送っているヒビキにとって、その凝縮された甘い芳香は、あまりにも刺激が強すぎた。
「……っ」
ヒビキは、無意識のうちに眉間をきゅっと狭め、わずかに顔をしかめてしまった。単に「嗅ぎ慣れない人工的な匂いに驚いた」という、ただそれだけの、至極単純な生理的反応に過ぎなかったのだが。
それを見逃さなかったリサーナの頭の中で、爆弾が炸裂した。
(く、臭かったかしら……!? 私の香水の匂いが、上着に移ってしまって……! それを不快に思われたんだわ……っ! どうしよう、嫌われちゃった、絶対に嫌われちゃったわ……っ!!)
リサーナの脳内は、一瞬にして絶望的なパニックに支配された。
顔を真っ赤に引きつらせ、オロオロと両手を虚空に泳がせながら、弁明の言葉を探して喉を震わせる。
ただサボりたいだけの少年と、彼の一挙一動に心臓を激しく揺さぶられるようになった少女。
かつてのトゲトゲしい関係が完全に崩壊し、甘く不器用なすれ違いの日常が、静かにその幕を開けようとしていた。




