43話 魔王女の鉄槌と、概念的消滅
魔王女の鉄槌と、概念的消滅
ヒビキの平然と展開した結界魔法の前に、傷一つ、波紋一つさえ残せずに消え去った極大の闇。
ザックはその光景が信じられず、血走った眼球をこれでもかと見開いてガタガタと全身を震わせた。
「な、なぜだ……!? そんな馬鹿なことがあってたまるか! これは魔界の最上位の力だぞ! 人間ごときの結界で防げるはずが――」
狂乱し、喚き散らすザックの言葉を遮るように、ヒビキの後ろから一歩、また一歩と、静かな足音が近づいてくる。
そこに歩み出たのは、それまで退屈そうに爪を眺めていたシアだった。
「ふふ、あまりの滑稽さに、腸が捩れるかと思いましたわ」
シアは冷酷な笑みを湛えながら、人化の術を部分的に解除する。
彼女の背後から噴き出した圧倒的な闇の魔力が、その背に黒い翼の輪郭を描き、頭上には漆黒の角が鋭く伸び上がった。それと同時に、彼女の手の中へと、自身の身長を遥かに超える巨大で禍々しい「黒銀の大鎌」が顕現する。
その瞬間、周囲の空間が物理的にメキメキと軋みを上げ、押し潰されるような重圧が路地裏を支配した。
それは、まがい物の闇など一瞬で穿ち呑み尽くす、真なる『魔界の王女』の威光。それはあまりに圧倒的であり、神聖ですらある絶対覇道の圧力であった。
「ひ……ぐっ、あああああッ!?」
ザックの体内に埋め込まれていた「禁忌の力(邪教の呪い)」が、目の前の一大深淵――シアの本物の魔力に触れたことで、絶対的な恐怖から暴走を開始した。
内側から肉体を焼き焦がされるような苦痛に、ザックは大量の血を吐き出してその場に膝から崩れ落ちる。
その時初めて、ザックは本能で理解してしまった。目の前に立つ美少女が、自分が魂を売った邪教の崇める悪魔などとは比較にもならない、遥か雲の上の頂点に君臨する存在であることを。
「ひっ、あ、あ、悪魔……!? 本物の、魔界の……!? なんで、ヒビキの奴が、そんな存在を従えて……ッ!」
腰を抜かしたザックは、涙と鼻水を顔中に撒き散らしながら、無様に地面を這って後ずさりする。しかし、シアの冷ややかな眼差しは、すでに彼を生物としてすら認識していなかった。
「ふん。邪教の矮小な呪いごときで『魔界の力』を騙るとは、片腹痛いですわ。……我が主様、ヒビキ様の平穏な日常を脅かそうとしたその大罪――死すら、あなたには生ぬるい」
シアの細い腕が、美しく、そして冷酷に大鎌を振り抜いた。
刹那、音も、光も、ザックの最期の叫び声すらも置き去りにして、絶対的な黒の刃が空間ごと彼を両断した。
どす黒い呪いの魔力ごと、ザックの肉体、魂、そしてこの世界に存在していたという事実そのものが、「概念ごと完全に消滅」していく。
刃が通り過ぎた後には、風に舞う塵一つすら残されてはいなかった。
♢ ♢
ザックが跡形もなく消滅した路地裏には、彼が最後の最後まで握りしめていた、邪教組織と繋がっていた決定的な証拠(呪印の残骸が刻まれた不気味な魔石)だけが転がっていた。
ヒビキはそれを「やれやれ」と拾い上げ、実家へ持ち帰って父親である辺境伯へ提出。
そこからの動きは早かった。辺境伯の手によって国の上層部へ証拠が提出されたことで、ザックの実家である伯爵家は「魔族および邪教組織との内通による国家反逆罪」に問われ、弁明の余地なく一発で取り潰しが決定。実家を巻き込んだ政治的対立は、ザックの自滅によって、あっけなく完全な破滅を迎えた。
♢ ♢
そうして、ようやくすべての面倒事が片付いた日の午後。
これで心置きなく平原でゴロゴロできると息を吐いたヒビキだったが、目の前の現実はやはり非情だった。
「ヒビキ、もう絶対に、私の傍から離れないでね! 私が絶対に、あなたを守ってあげるんだから!」
今回の事件でヒビキの実力と頼もしさを改めて思い知り、同時にシアへの対抗心を燃え上がらせたリサーナが、ヒビキの右腕をぎゅっと抱きしめて顔を真っ赤にしながら宣言をした。
「あら、人間の小鳥がずいぶんと囀るものですわね。ヒビキ様の隣、この永久の特等席はわたしのものですのに。ねえ、ヒビキ様? 今日もたくさん、わたしが甘やかして差し上げますわ」
反対側からは、独占欲を隠そうともしないシアが左腕にしがみつき、怪しくも甘い微笑みを投げかけてくる。
左右から迫る熱烈な視線と、過剰なまでの密着感。
ヒビキは青空を見上げ、こめかみを押さえながら、本日一番の重いため息をついた。
「はあ……。やっぱり、外に出ないで、屋敷のベッドで寝てるのが一番安全だったな……」
サボるための平穏を勝ち取ったはずが、さらに騒がしくなった日常に頭を抱えるヒビキ。
彼の「省エネライフ」への道は、どうやらこれからも、果てしなく遠いようだった。




