41話 お忍びの街視察と、二人のヒロイン
お忍びの街視察と、二人のヒロイン
緊迫する領地情勢の真っ只中、ヒビキに「合法的に屋敷から脱走するチャンス」が巡ってきた。
ザックの父親である伯爵からの流通妨害を受け、街の物価や治安にどのような影響が出ているのかを直接確かめるべく、父親である辺境伯の代理としてお忍びの視察へ赴くことになったのだ。
ヒビキにとっては、窮屈な執務室を抜け出し、お役目の名目で外の空気を吸いながら適当にサボるための絶好の機会のはずだった。
しかし、その計画を聞きつけた人物が、おとなしく屋敷で待っているはずもなかった。
「ちょっとヒビキ! 街へ視察に行くなんて、私を置いていく気じゃないでしょうね!? も、もちろん、あなたが心配だから一緒に行ってあげるって言ってるのよ!」
リサーナが頬を朱に染め、息を荒くして同行を志願してきたのだ。
かつてザックの悪質な言葉を真に受け、ヒビキを最弱の役立たずと見下していた暗い過去。それを深く、深く悔いている彼女にとって、今の時間は「ヒビキに嫌われたくない」「少しでも彼の役に立ち、対等な隣を歩みたい」という、祈りにも似た切実な焦燥感の裏返しでもあった。
「あんたは相変わらずやる気なさそうだし、危なっかしいんだから! 私が近くでしっかり見張ってあげなきゃダメでしょ!」
精一杯の強がりとツンツンした態度で誤魔化そうとするものの、リサーナの心臓はすでにバクバクと壊れそうなほどの鼓動を刻んでいる。雑踏を歩く中、偶然ヒビキの肩や袖がほんの少し触れ合うだけで、彼女は耳たぶまで真っ赤にして小さく跳ね上がっていた。
だが、そんな微笑ましい青春の甘い空気は、もう一人の美少女によって一瞬にして冷徹に塗りつぶされる。
「ふん……。他家のお嬢様が、我が主様の行く手を塞ぐように大声を出すものではありませんわ。騒々しい小鳥は、籠の中にでも引きこもっていればよろしいのに」
美しい黒髪を風に揺らし、完全に美少女に人化した状態でぴったりとヒビキの反対側に寄り添うシアが、リサーナを冷ややかな、それこそゴミでも見るかのような極北の眼差しで射抜いた。
「な、なんですって、シア! 私はヒビキの幼馴染として護衛を――」
「護衛なら、このシア一人で十分足りておりますわ。ヒビキ様の隣は、私の、わたしだけの特等席ですもの」
シアは勝ち誇ったように、ヒビキの逞しい腕に己の柔らかな胸を押しつけるようにしてぎゅっと抱きついた。リサーナの視線が怒りと嫉妬でバチバチと火花を散らし、シアの深紅の瞳もまた、冷酷な獣のような光を湛えてそれを真っ向から迎え撃つ。
「……あー。お前ら、お忍びの視察だって言っただろ。頼むから目立つ真似はしないでくれ」
ヒビキは左右からの強烈な視線と柔らかな圧迫感に挟まれ、文字通り「針のむしろ」の上に立たされている気分だった。静かにのんびり歩き回るはずのサボり時間が、別の意味で精神を削り取る過酷な労働へと変貌していた。
だが、そんな賑やかで騒がしい日常は、彼らが大通りから一本外れた、薄暗い路地裏の並ぶ通りへと差し掛かった瞬間に、唐突な終わりを迎えた。
ピリ、と、ヒビキの肌が静電気を浴びたように粟立つ。
(――なんだ、この不快な気配は……?)
前世で貪るようにプレイした、あのダークファンタジーゲームの膨大な知識。そして、今の彼自身が有する、世界を容易にねじ伏せるほどの「絶対的な魔力感知」が、大気の異変を鋭敏に察知していた。
急速にこちらへと接近してくる、あまりにも異様な力。
それは魔獣とも、人間とも、あるいは彼ら最上位悪魔のそれとも異なる、生物の枠を完全に踏み外した「どす黒く禍々しい、粘り気のある最悪の異質な魔力」だった。
ヒビキの瞳から、それまでのダルそうな温度が完全に消え失せる。
「二人とも、下がれ。後ろにいろ」
それまでの脱力した声とは明らかに異なる、芯の通った冷徹な声音。
ヒビキは、まだ言い争いを続けようとしていたリサーナとシアの前にすっと腕を伸ばし、自らの背中の後ろへと二人を強制的に下がらせた。
薄暗い路地の奥、日の光が届かない闇の向こうから、空間そのものを腐食させるかのような不気味な足音が、一歩、また一歩と確実に近づいてきていた。




