39話 絶対なる特異点、あるいは従者たちへの枷
絶対なる特異点、あるいは従者たちへの枷
湖畔を包む黒い靄が薄れ、空を仰げば、いつの間にか太陽の陽が少しだけ傾きかけていた。橙色の光が、無残に抉り取られた山肌と、干上がりかけた湖面を寂しげに照らし出す。
「そろそろ、帰るか……」
ヒビキが首を振り、疲れ果てたようにため息混じりで呟いた。
すると、その言葉にシアの赤い瞳がパッと輝き、嬉しそうに声を弾ませてヒビキの顔を覗き込んできた。
「わぁ……ヒビキ様のお屋敷にですの!? わたしも、その、ご一緒しても……?」
「わたくしも、もちろんご一緒させていただきます!」
執事姿のアゼルもすかさず一歩前に出て、主への追従を示すように深く頭を垂れた。
「シアは、俺が召喚したんだから当然ついてくるとして……。お前までついてこなくていいんだぞ、アゼル」
「そうはおっしゃいましても、わたくしもすでに契約を結ばせていただきましたから。ヒビキ様のお役に立てるよう、この身を粉にして尽くさせていただきます!」
「はぁ……。お前をこのまま放っておいたら、確実にどこかで面倒な厄介ごとを起こしそうだしな」
ヒビキは、衝撃波でボコボコに抉られた山と、なぎ倒された巨木たちの無惨な姿を眺め、心底呆れ果てた顔で呟いた。この規模の戦闘を起こすような危険分子と関わり合いになりたくはなかった。だが、野放しにするわけにはいかない、というのが彼の正直な本音だった。
「いいか、屋敷にいる間は、二人とも絶対に大人しくしてろよ。俺の許可なく人を傷つけるな。それから、絶対に暴れるなよ。……もし約束を破ったら、即、封印するからな」
ヒビキが冷徹な声でそう告げた瞬間、彼の右手の手のひらの上に、異様な「何か」が産声を上げた。
――それは、光さえも逃れることのできない、極小の「ブラックホール」だった。
彼の掌の上に現れた『それ』は、親指の先ほどの小さな、しかし底の知れない漆黒の球体。
その球体が空間に穴が空いたように出現した刹那、周囲の大気がキィィィンと耳を劈くような高周波の音を立てて激しく歪み、吸い込まれていく。影も、光も、温度すらも、その極小の暗黒の球体へと不自然に折れ曲がり、収束していくのが目に見えて分かった。
それは、世界そのものを削り取り、虚無へと還すための絶対的な特異点。ただそこにあるだけで、空間そのものがメキメキと悲鳴を上げ、物理法則や理が崩壊していくような凄まじい圧迫感と、根源的な恐怖が放たれていた。
シアの背中にゾクリとした怖気が走り、彼女は思わず息を呑んで一歩身を引いた。最上位悪魔としての本能が、あの黒い球体に触れた瞬間、再生はおろか、魂の構成粒子に至るまで完全に消滅させられると警告していたからだ。
そしてアゼルは、その破滅的な美しさを湛えた暗黒の球体を前に、身震いするほどの法悦に瞳をギラギラと輝かせていた。これほどの規格外の力を、この少年はただの手慰みのように顕現させている。その事実が、彼の狂信をどこまでも加速させた。
終焉の特異点、あるいは忠誠の足枷
「ご、ご主人様……そ、それは……封印という生易しいものではないと思いますが……!? 通常の封印術であれば、数百、数千年の経年で術式が劣化する余地がありますけれど……それは、因果ごと異次元の空間へ絶対的に隔離する手法ですよね。劣化なんてしませんし……実質的な、永久追放ですよね……」
アゼルはそれまでの狂信的な表情を劇的に強張らせ、完全に顔色を失って、震える声をヒビキへと向けた。
魔界の頂点たる最上位悪魔だからこそ、あの掌の上の暗黒が、単なる魔力の塊などではなく「世界の存在そのものを抹消する特異点」であることを見抜いてしまったのだ。一度そこに堕とされれば、二度とこの世に這い上がることは叶わない。




