37話 神恩の閾、あるいは生まれ変わる蛇
神恩の閾、あるいは生まれ変わる蛇
アゼルは、泥の中に額を擦りつけるようにして、震える声を極限まで絞り出した。
「……ヒビキ様……申し訳……ありません……っ。決して、軽い気持ちで、お側にいるお方に触れたわけでは……いや、軽かった……本当に……。我が身の愚かさ、弁解の余地もございません……っ!」
その必死の謝罪に、それまで強烈な覇気に気圧されて硬直していたシアは、恐る恐る自らの細い指先を動かした。そして、ヒビキの衣服の袖をそっと、救いを求めるようにして掴む。
「ヒビキ様……もういいわ。アゼルは……もう、戦う意思すら完全にへし折られて、動けないですわ」
ヒビキは短く、面倒そうに息を吐き出すと、世界を縛りつけていた結界の圧倒的な圧をスッと霧散させた。
その瞬間、身体の自由を取り戻したアゼルだったが、体中の力が抜け落ち圧倒的な力を身をもって思い知り、乱れた呼吸を整えながらしばらく動くことができなかった。生まれて初めて戦いで地面に膝を着き土まみれになり、荒く息を吐き出すその無様な姿は、かつて魔界で傲慢に振る舞っていた王子とは思えないほどだった。
だが、彼のその金の瞳に宿っていたのは、絶望の影でも、ましてや復讐の炎でもなかった。ただ一つ――これまでに抱いたことのない、ギラギラとした奇妙な狂信の光だった。
(……この方に……この絶対的な強者たるお方に、我が魂のすべてを、絶対的な忠誠として捧げたい。一生を賭して、この背中にお仕えしたい……!)
悪魔の王子の胸の奥深くで、これまでの傲慢なプライドは綺麗に粉砕され、ヒビキという唯一無二の神へと捧げる、熱狂的な絶対忠誠が完成した瞬間だった。
神域の余韻、あるいは繋がれたる鎖
ヒビキの結界が静かに解かれた瞬間、アゼルは湿った地面に泥まみれの手をついたまま、しばらくのあいだ、荒れた呼吸を整えることすらできなかった。
肺の腑が焼けるように熱く、胸の奥は未だかつてない恐怖でガタガタと震えている。
かつて縦横無尽に世界を侵食していた漆黒の影は、今や完全に沈黙し、体内の魔力はまるで今にも途切れそうな細い糸のように頼りなく震えるばかりだった。
(……死ぬかと思った……。何者にも滅ぼせぬはずの、不死の僕が……この身をもって、本当の“死”を理解するなんて……)
シアは未だに身体を強張らせながら、ヒビキの袖をその細い指先でそっと掴み、潤んだ赤い瞳で主の横顔を心配そうに見上げる。
「……シアに触れるな。それだけだ。シアは、俺の従者だ。俺のモノに触れるな」
ヒビキの口から紡がれた声音は、どこまでも淡々としていた。
そこには激しい怒りも、王者を気取るような苛立ちもない。ただ、目の前にある絶対の『事実』や『理』を淡々と、当たり前のように告げるだけの静かな声だった。
だが、だからこそ、アゼルにとってはそれが世界を押し潰す何よりも重い言霊となった。
シアがヒビキの「モノ」であるという事実。そして、その領域を犯すことは、イコール己の絶対の死を意味するという宣告。
アゼルは震える指先でじわじわと泥の地面を押し、ゆっくりと泥にまみれた膝を揃えて座り直した。
そして、先ほどまでの不遜な態度が嘘のように、深く、深く、その頭を垂れた。
「……ヒビキ様」
その声は、恐怖の残滓でかすかに震えている。
だが、その金の瞳の奥にある崇拝の光には、もはや一切の迷いがなかった。
「どうか……どうかこの僕を……あなた様の側に、置いてください」
絶対的な覇者を見出した悪魔の王子は、己のすべてを捧げる覚悟を胸に、ただひたすらに、その慈悲と支配を求めて平伏するのだった。
狂信の誓約、あるいは忠実なる影
突如として紡がれた敗者の嘆願に、シアが驚愕して勢いよくそちらを振り向いた。
「アゼル!? あなた、一体何を言って――」
シアの言葉を遮るように、アゼルは額を地面へとさらに深く擦りつけ、平伏したまま言葉を重ねた。
「この命でも、魂でも、僕の操るすべての影でも……あなた様のためならば、何でも差し出します。あの圧倒的な結界に触れた瞬間、魂の深淵で理解してしまったのです。あなたこそが……僕が全存在を賭けて仕えるべき、真の“主”なのだと」
あまりに必死で一方的なアゼルの熱弁に、ヒビキはわずかに眉をひそめ、心底面倒くさそうな表情を浮かべた。
「……いや、別に仕えなくていい。ただの人間だし、そんな大層な家臣とかいらないから」
即座に下されたその冷淡な一言に、アゼルの細い肩がビクリと大きく震えた。
「そ、そんな……! これほどの僕を、一瞬で拒絶……ですか……?」
ゆっくりと顔を上げたアゼルの金の瞳には、拒絶された絶望や恐怖などは微塵も浮かんでいなかった。そこにあったのは、熱烈な“崇拝”と、歪んだ“歓喜”がドロドロと入り混じった、常軌を逸した奇妙な光だった。
「この魔界において、誰もが欲しがり、恐れる最上位の悪魔の王子であるこの僕を……! まるで路傍の石ころのように、一瞥で拒否されるなんて……。ああ、なんて……なんて素晴らしく、尊いお方なのだ……!」
悦びに打ち震えるその異様な姿を目の当たりにし、シアはとうとう信じられないものを見る目で、己の額にそっと白い手を当ててため息を吐いた。
「……アゼル、あなた本当に頭がおかしくなってしまったのね。どうかしてるわよ」
シアの冷ややかな蔑みの視線を受け、アゼルは恍惚とした表情のまま、にっこりと美しい顔を歪めて笑ってみせた。
「シア、君が本当に羨ましいよ。これほど底知れない、至高の主に出会えたのだから。だからこそ……僕もどうしても、あなた様の側に置いていただきたいんだ」
アゼルの並々ならぬ執念と熱視線に耐えかねたように、ヒビキは首を振り、本日何度目か分からない深い、深いため息をついた。
「……はぁ。もう好きにすればいいよ。勝手についてくれば。ただし、俺たちの邪魔だけは絶対にするなよ」
ヒビキが諦めたようにそう告げた瞬間、アゼルの金の瞳が、まるで太陽の光を浴びた宝石のように激しく、そして美しく輝いた。
「はいッ! このアゼル、これよりヒビキ様の唯一無二の影となり、敵を貫く剣となり、身を挺する盾となり……望まれることならば、何でも、どこまでもお供いたします!」
こうして、世界を揺るがす最上位悪魔の王子は、不器用な少女に続き、一人の「ただの人間」の足元に、その首輪を自ら捧げることとなったのだった。




