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36話 神威の領域、あるいはひれ伏す影

深淵の静寂、あるいは神域の重圧(2)


 ――その、瞬間だった。


 世界から、あらゆる音が完全に失われた。


 風のそよぎも、パチパチと爆ぜていた焚き火の炎の音も、湖の水面の揺らぎすらも、森の小鳥たちや獣に魔獣たちの音までも、まるで時が止まったかのように静止する。


 それと同時に、アゼルの指先に滾っていた、禍々しいはずの黒紫の魔力が、一瞬にしてすべて霧散し、しぼんで消えた。それは、まるで見えない巨大な神の手によって、魔力そのものを根こそぎ握り潰されたかのような、あまりにも理不尽で一方的な現象だった。


「……え?」


 アゼルが間抜けな声を漏らした刹那、彼の足元に広がっていた傲慢な影が、目に見える激痛を伴うようにしてバラバラに引き裂かれた。


 次の瞬間、アゼルの全身に、大気そのものが数千倍の超重力となって押し潰してくるような、凄まじい圧迫感が襲いかかる。


 ドォン、と重苦しい音が響き、アゼルは地面へと叩きつけられるようにして両膝をついた。石が砕け、土が弾け飛ぶ。肺の中の空気が強制的にすべて押し出され、喉が喘ぐように震えるが、酸素を吸い込むことすら許されない。ただ胸を万力で締めつけられるような激痛に、アゼルの顔が恐怖と苦悶で歪んでいく。


「な……っ、これ……は……? 身体が……動か、ない……魔力が、消さ、れて……っ!?」


 それは、実力差などという生易しい言葉では説明のつかない、絶対的な生存否定の領域だった。

 隣にいたシアもまた、その場で全身の毛穴が総毛立つほどの恐るべき事態に、驚愕のあまり完全に凍りついていた。

 彼女の美しい黒髪が目に見えて小刻みに震え、深紅の瞳がこれ以上ないほどに大きく見開かれる。なぜなら、その場に展開された絶大無比な「何か」の気配を、彼女の魔力感知能力が、正確にその根源へと導いたからだ。


「ヒビキ様……? これは……あなたの……結界、なのですか……?」


 シアは震える声を絞り出し、恐る恐る背後の倒木へと視線を向けた。


 しかし、そこに座るヒビキは、先ほどと変わらずに頬杖をつき、退屈そうにこちらを見つめているだけだった。呪文を唱えた様子も、魔力を練り上げた予兆すらもない。


 ただ、彼の周囲にだけは、すべてを拒絶し、あらゆる因果をねじ伏せるような、底の知れない透明な「支配の領域」が展開されていた。触れることすら叶わない、まさに神域とも呼ぶべき絶対的な沈黙の結界。


 何もしていないように見える少年の、そのあまりにも桁違いで暴力的な「静寂」の前に、魔界の王子アゼルは、ただ泥を這う蟲のように地に這いつくばるしかなかった。



神威(しんい)の領域、あるいはひれ伏す影


 ただ、そこに腰掛けているだけ。

 指先一つ動かさず、呪文の詠唱も、魔力の奔流を見せることすらしない。


 だが――


 その“ただ佇む存在”が放つ、目に見えぬ無色透明の質量が、最上級悪魔の王子を容赦なく踏みにじり、文字通り圧殺せんとしていた。


 アゼルの視界が、赤黒く染まりながら激しく揺れる。誇り高き彼の影は、主人の恐怖に共鳴するように悲鳴を上げて震えていた。


 いかなる致命傷を負おうとも瞬時に再生する、悪魔特有の「不死の身体」。その無敵を誇っていた肉体が、何百年という生の中で初めて、本能的に“死”の二文字を理解した。


「……っ、死ぬ……! 不死であるこの僕が……本当に、消滅させられる……!?」


 かすれた声は血を吐き出すかのように掠れ、地面を掴む指先は屈辱と恐怖によって、ガタガタと無様に震えていた。

 それは、最上位悪魔であるシアでさえも例外ではなかった。彼女の卓越した戦闘本能が、ヒビキの周囲を強固に満たしている結界の「本質」を察知し、その場から一歩も動くことを許さない。

 ヒビキの結界が放つ絶大な圧は、彼女の血を凍らせ、体内の膨大な魔力回路すらも物理的に硬直させていた。


「ヒビキ様……これは……あなたの……怒り、なのですか……?」


 シアは畏怖に満ちた声を漏らしながら、縋るようにその主人を見上げた。


 ヒビキはただ、静かにアゼルを見下ろす。

 その双眸には憎悪も、愉悦も、傲慢さもない。ただ、侵してはならない領域を侵されたことに対する、絶対的な理としての冷徹さだけがあった。


「……シアに触れるな」


 静かに、けれど世界の理を書き換えるかのように紡がれた、その一言。

 その刹那、アゼルの周囲を圧迫していた不可視の万力が、身体を縛るすべての重圧が更に増しアゼルは、ただ泥のように崩れ落ち、地面に押しつけられるようにひれ伏し抵抗することが出来なかった。あまりの畏怖に、息を吸うことすら忘れて地面に這いつくばっていた。


(……なんだ……この人間は……。魔界のどんな最上位悪魔よりも、あのシアよりも……いや、魔界を統べる我が父王よりも、格段に……『上』だ……。次元が、まるで違う……!)


 悪魔にとって、絶対の強者は絶対の支配者。

 アゼルの心臓を支配していた絶対的な恐怖は、いつしか、彼がこれまで一度も抱いたことのない、底知れぬ狂信的な「崇拝」へと塗り替えられていくのだった。

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