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35話 深淵の静寂、あるいは神域の重圧

深淵の嵐、あるいは愛しき主(あるじ)を守る盾


 だが――シアの瞳が、冷酷な獣のように細く光を放った。


「アゼル。今の言葉、すべて取り消しなさい」


 低く、そして地鳴りのように響く声。しかし、アゼルは鼻で笑い、金の瞳を愉しげに歪める。


「嫌だよ。むしろ試してみたいくらいだね。その貧弱な人間が、どれくらい僕の魔力に耐えられるのか、何秒で壊れるのか、すごく興味があるな~。とても、面白そうだと思わない?」


 アゼルが極小の魔力弾を宿した指先をヒビキへと向けた、まさにその瞬間だった。

 シアの夜空のような黒髪が、荒れ狂う嵐の兆候のようにふわりと重力を無視して浮き上がる。その美しい赤い瞳は、すべてを燃やし尽くす深紅の地獄の色彩へと染まった。


「ヒビキ様に気安く触れるなッ!」


 シアの咆哮と同時に、大気が悲鳴を上げた。

 ドォンと爆音を立てて漆黒の地獄の業火――黒炎が爆ぜ、同時にアゼルの足元の影がまるで意志を持つ大蛇のように逆巻いて牙を剥く。シアの絶対的な「影の支配」と「深淵の魔力」が解放されたのだ。


 強烈な圧力で空気がビリビリと震え、周囲の広大な森の木々が一斉に激しくざわめき、恐怖を訴えるように葉を散らせた。


 だが、アゼルは怯むどころか、さらに深く笑う。その細められた金の瞳には、悪魔の王子らしい残酷な愉悦と凶暴な光がぎらぎらと帯びていた。


「怒った? 珍しいねぇ、感情を排して魔界の冷徹な女王を演じていた君が、たかが人間のためにここまで激昂するなんて……さぁ」


「あなたが……万死に値するその口で、ヒビキ様を侮辱したからよ!」


 シアの足元から奔った黒炎の津波が地面を焼き焦がしながら猛進し、それを迎え撃つアゼルの漆黒の影と正面からぶつかり合う。


 ギギギ、と空間が軋む耳障りな音が響き、アゼルの広げた影は無数の巨大な刃へと形を変えてシアの喉元を狙って飛来する。だが、それを許さぬシアの黒炎は、意思を持つ防御の盾となって迫る影の刃を次々と焼き払い、煤さえ残さず虚無へと還元していった。


 最上位悪魔同士の、次元の異なる激突。

 ただ二人が魔力を衝突させているその余波だけで、衝撃波が同心円状に広がり、周囲にそびえ立つ巨木たちがまるでおもちゃの草のようになぎ倒されていく。背後の山肌すらも、漏れ出た魔力の弾幕によってボコボコと無残に抉り取られていった。


 それでもアゼルは笑いを崩さない。突如、彼自身の身体が溶けるように影へと沈んだ。次の瞬間、ヒビキの足元から這い出たアゼルの影が、触手のように鋭く伸びてその首筋を狙う。


「ほら、ほら~! ちゃーんと守れるのかい、シア? 君のその、自慢の『主さま』をさぁ~!」


「黙りなさいッ!」


 シアの怒号が響き渡る。

 彼女は影の中に潜むアゼルの本体を正確に捉え、ヒビキに迫る影の触手ごと焼き尽くすべく、超高密度の黒炎の柱をその場に直立させた。ゴォォ、と凄まじい熱風が吹き荒れ、アゼルの放った影を瞬時に弾き飛ばして塵へと変える。


 逃れたアゼルは上空の薄暗い靄の中に再出現し、その手にどす黒い魔力球を形成する。


「これならどうだい!」


 放たれた幾千の黒い弾丸が、雨のように湖畔へと降り注ぐ。

 シアは一歩も退かず、ヒビキの前に立ちはだかった。彼女が両手を掲げると、湖のすべての影が吸い上げられ、ヒビキと自分を包み込む漆黒の巨大な障壁となって展開される。


 ドガガガガッ! と爆発音が連続して轟き、衝撃で湖の水が天高くへと噴い上がった。

 歪む大気、抉れる大地、そして激しく干上がっていく湖。

 魔界を代表する二大巨頭の衝突は、平原を一瞬にして焦土へと変えんとするほどの、圧倒的で恐るべき破壊の嵐を巻き起こしていた。



深淵の静寂、あるいは神域の重圧


 天を衝くほどの魔力と、大地を抉る黒炎と影の激突。最上位悪魔同士の、国一つを容易に滅ぼすであろう死闘が繰り広げられていた。


 だが、その恐るべき破壊の渦中にありながら、ヒビキはどこか退屈そうに、湖畔の倒木に腰掛けたまま頬杖をついてその光景を顔色一つ変えずに眺めていた。


 シアの放つ黒炎も、アゼルの操る漆黒の影も、一見すれば苛烈極まるものだったが、ヒビキの底知れない瞳からすれば、それはお互いの実力を測り合うような、どこか手加減の残るじゃれ合いにしか見えなかったからだ。そのため、彼は特に仲裁に入ることもなく、静かにふたりの戦いを見物していた。


 幾度目かの魔力の衝突の後、アゼルはひらりと重力を無視してシアの背後へと回り込み、その華奢な肩へと軽く手のひらを乗せた。

 それは、最上位悪魔としての余裕と、かつての関係性を誇示するための、ほんの悪戯のつもりだった。


「そんな怖い顔しないでよ、シア。僕たちはこれでも、仲良しな幼馴染だろう?」


 シアは不快そうに眉をひそめ、すぐにその無礼な手を激しく振り払おうとした――。


 その、瞬間だった。

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