34話 深淵の影、王女の秘めごと
深淵の影、王女の秘めごと
ヒビキは差し出されたシアの愛らしい頬に、もう一度だけ優しく唇を寄せた。その度にシアが嬉しそうに身体を強張らせ、小さな吐息を漏らすのを、微笑ましく見つめる。
これほど無邪気に甘えてくるシアだが、ヒビキは彼女の真の実力を全く理解していなかった。
それもそのはず、以前リサーナから聞かされていた召喚術の常識では、「召喚獣なんてものは荷物運びや周辺の索敵、戦闘のちょっとした補助にしか使えない」というのが当たり前だったからだ。ヒビキの持つ圧倒的な魔力が、その常識を根底から覆し、魔界の生態系の頂点に君臨する者を呼び出してしまったなどとは、彼は夢にも思っていない。
実は、シアには最上位悪魔ならではの、あまりにも強力で便利な固有スキルが存在していた。
その名も「影の支配」。
自らの肉体を影の中に完全に潜め、気配を完全に遮断して移動するだけでなく、敵の影を操って動きを封じたり、物質を影の空間に収納したりと、およそ戦闘から暗殺、隠密行動に至るまで、ありとあらゆる状況に対応できる万能の隠し札だった。
それだけではない。シアは魔界の広大な領地を統治する若き女王であり、その配下には、人間の国一つを容易く滅ぼせるほどの上位悪魔の配下たちが大勢控えていた。そして最上位の悪魔たる彼女自身、ヒビキをも凌駕しかねない規格外の魔力と底知れない魔力量を誇り、未だヒビキに見せていない凶悪な魔法やスキルを、その身に無数に秘めていたのだ。
そんな、世界を揺るがすほどの強大な存在が、いまや湖畔の静寂のなかで、一人の少年の唇が自分の頬に触れるだけで、胸をキュンと切なくさせて熱い吐息を漏らしている。
「ふふ、これで満足いたしましたかしら……、主様?」
シアは赤く染まった頬を両手で包み込みながら、嬉しそうに、そしてどこか妖艶に、ヒビキの瞳をじっと見つめ返すのだった。
深淵の境界、牙を剥く蛇
ふたりを包んでいた甘く穏やかな空気が、一瞬にして凍りついた。
鏡のように澄んでいた湖面から、突如として禍々しい黒い靄が立ち上り、周囲一帯を包み込んでいく。陽の光は遮られ、世界は急速に薄暗い死の領域へと変貌していった。
視界を塞ぐ深い靄の向こう側、湖の上にぼんやりと、異様な圧力を放つ人影が浮かび上がる。
「やぁやぁ、シア。相変わらず綺麗な髪だねぇ」
静寂を切り裂くように響いた軽い声とともに、その男は現れた。
シアの国の隣国ノクターナスの悪魔の王子、アゼル。
魔界においてシアの領地と覇権を争う大国の後継者であり、彼女と同格の最上位悪魔だ。うねるような黒紫の髪を揺らし、獲物を見定めた蛇のように金の瞳を楽しげに細めている。
シアの表情が、一瞬にして極寒の氷へと変わった。先ほどまでの恋する乙女の気配は完全に消え去り、魔界の王女としての冷徹な覇気がその身から立ち上る。
「……アゼル。何の用があってこの地へ赴いたのですか?」
「何って、幼馴染にして好敵手たる君が、こともあろうに、矮小な『人間に仕えている』なんて妙な噂を聞いたらね。この目で真実を確かめに来るのが礼儀というものだろう?」
アゼルは音もなく空間を滑るように移動し、シアの制止を嘲笑うかのようにすり抜けて、ヒビキの目の前へと着地した。その動きには一切の無駄がなく、同時に、隠そうともしない強烈な悪意と傲慢さが満ち満ちていた。
「へぇ……これが君の新しい主かい? ふぅん……なんだか、とっても弱そうだねぇ。魔力の波すら感じられない。こんな脆弱な羽虫、僕が指先一つで触れただけで、簡単に壊れて消えてしまうんじゃないかい? んふふ……」
アゼルはヒビキを値踏みするように見下ろし、不敵な笑みを浮かべた。
だが、その邪悪に満ちた圧や挑発的な言葉に対しても、ヒビキの心は微塵も揺らがなかった。彼は二人の関係性を見極めるように、無表情のまま、ただ静かにアゼルの金の瞳を見つめ返していた。その底知れない瞳の奥には、嵐の前の静けさのような、絶対的な静寂が宿っていた。




