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33話 水鏡の恋、あるいは契約の唇

水鏡の恋、あるいは契約の唇(2)


「ん? ご褒美? そもそも俺、お前を助けたっけ? それに、悪魔とキスなんかしたら……なんかこう、とんでもない代償を支払わされたり、恐ろしい呪いとかが起きそうじゃないか?」


「え……?」


 ヒビキのあまりにも現実的で、かつ警戒心に満ちた反応を聞き、シアは呆然としてその場に固まってしまった。

 確かに彼が言うことは悪魔の常識としては事実だ。通常、悪魔と契約を交わし、ましてや口付けを交わせば、魂を根こそぎ吸い取られるか、肉体を乗っ取られるのがオチである。


 だが、今の二人は絶対的な主従契約を結んでおり、シアが主人に害意を持つことすら不可能なのだ。そもそもレベル600という底知れない領域にいるヒビキ相手では、シアがどんな最上位の呪いを仕掛けようともすべて無効化され、効くはずがなかった。


「……そんなこと、絶対にありませんわ! わたしは従者契約を交わしていますし、ヒビキ様に害をなすことなどできなくてよ。……そんなにイヤなら、もういいですわ。ふんっ!」


 シアは恥ずかしさとプライドを傷つけられたショックから、プイッと音が出るほどの勢いでそっぽを向いてしまった。

 ツンと冷たい態度を取ってはいるものの、その小さな肩はかすかに震えており、必死に涙を堪えているのが一目でわかった。


 そんな風に分かりやすく拗ねた仕草を見せるシアを隣で見つめながら、ヒビキはただただ、その様子が愛らしくてたまらなかった。傷つけるつもりはなかったが、からかわれたり怒ったりする姿を見るだけで、日頃の疲れが一気に吹き飛ぶように癒やされていく。


(やっぱり、こういうツンデレな美少女って、理屈抜きにめちゃくちゃ可愛いよな……)


 シアは、隣から自分に注がれているヒビキの温かい視線を肌で感じていた。けれど、内心ではまたしても強気な発言をして突っぱねてしまった自分自身に、深い、深い後悔の念を抱いていた。


(どうしてわたしは、いつもこうなってしまうのかしら……。本当はただ、ヒビキ様に甘えたいだけなのに……)


 夕暮れ間近の澄んだ湖畔で、不器用な悪魔の王女は、自分の言葉の刺に深く苦しみながら、静かに唇を噛み締めるのだった。



揺蕩う青と、甘い罰


 シアが拗ねてそっぽを向いたまま、膝の上でドレスのレースをぎゅっと握りしめていた、その時。

 ふいに隣からヒビキの気配が近づいてきたかと思うと、シアの白く滑らかな頬に、プニッとした温かく柔らかい感触が押し当てられた。


「俺がキスをするのは、問題ないだろ? お前が俺へのご褒美だと言ってたしな。……それとも、俺からの口付けはイヤだったか?」


 耳元で囁くように響いたヒビキの低く優しい声に、シアの心臓は今日一番の大きさでトクンと跳ね上がった。頭の芯がじんわりと熱くなり、反論する言葉など何一つ思い浮かばず、ただただ驚きに打たれたように、小さく、こっくりと頷くことしかできなかった。


「い、いえ……まあ、そこまでおっしゃるなら、仕方のない主様ですわね。良いですわよ……」


 口調こそいつもの不遜な王女を装ってはいたものの、シアの白く細い手は嬉しさと激しい動揺で小刻みに震えていた。これほどまでに胸が満たされる感覚を、彼女は今まで知らなかったのだ。


「……それにしても、それだけで満足してしまいましたの? これまで何度もわたしを危険から助けてくれたというのに、そんなささやかなご褒美だけで足りるわけがないでしょう。ほら、反対側の頬も、特別に許して差し上げますわ」


 シアは破裂しそうなほど脈打つ鼓動を必死に抑え込みながら、自ら反対側の頬をヒビキの方へとそっと差し出した。


「本当に良いのか? ただの人間である俺が、お前みたいな最上位の悪魔に、こんな風にキスをしちゃって……」


 ヒビキは首を傾げながら、どこか申し訳なさそうに言った。彼にとって、この世界における人間は種族の階級では下位であり、天使と同等とされる最上位悪魔であるシアは、本来ならば遥か高位に君臨する絶対的な強者だという認識があったからだ。


「へ? あぁ……そうですわね。でも、そんな最上位のわたしを、こうして呼吸一つ乱さずに完璧に従者へと仕立て上げてみせたのですもの。あなたはもう、普通の人間という枠には収まりきっていませんわ」


 シアは潤んだ赤色の瞳をゆっくりとヒビキへと向け、どこか艶を孕んだ眼差しでその瞳を見つめ返した。


「それに……他ならぬ本人のわたしが、あなたになら何でもして良いと、こうして許可をして差し上げているのですもの。……んっ」


 シアはそう言うと、まるでおねだりをするかのように、再びその桃色に染まった頬をヒビキの唇へと近づけ、早く、と催促するように小さく甘い声を漏らすのだった。

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