32話 水鏡のほとり、あるいは無窮の規格外
水鏡のほとり、あるいは無窮の規格外
木々の隙間を縫うようにして森のさらに奥地へと進むと、突然視界が大きく開け、息を呑むほどに美しい広大な湖へと辿り着いた。
傾き始めた太陽の光が水面に反射し、まるで無数の宝石を散りばめたかのようにキラキラと眩しく輝いている。鏡のように澄み渡った湖面には、どこまでも高い青空とゆっくりと流れる白い雲が完璧に映し出されており、その境界のない景色を眺めていると、まるで自分たちが大空の真ん中を飛んでいるかのような不思議な錯覚に囚われるほどだった。
ヒビキは眩しそうに目を細め、静まり返った周囲を見回したが、自分たち以外の人間らしき影はどこにも見当たらなかった。
「こんなにキレイな湖なのに、人が全然いないんだな……」
不思議そうにぽつりと呟いたヒビキの言葉に、隣に並んで同じ水面を見つめていたシアが、どこか呆れたような声音で答えた。
「ヒビキ様、普通に考えれば……人間がここへ辿り着くのは絶対と言っていいほど困難ですわ。ここまで来る道中、一般の冒険者なら一軍隊が全滅するような強い魔物や魔獣が、それこそ大量に生息していましたからね」
シアは夜空のような黒髪を風に揺らしながら、ヒビキの横顔を見つめた。
ヒビキ自身、自分が「いきなり強くなった」という自覚自体は多少なりとも持っていた。しかし、まさか普通の人間が命懸けでも辿り着けないような未踏の秘境へ、散歩がてら一人で来られるほどの領域に自分が達しているとは、夢にも思っていなかったのだ。
ヒビキは少し頭を整理するように、休憩のため湖畔に横たわっていた大きな倒木へと近づき、そこへゆっくりと腰掛けた。
「ふぅ。ちょっと疲れたな……」
息を吐きながら呟いた主人を見て、シアは思わず小さく苦笑いを漏らし、吸い寄せられるようにして彼の隣へと腰を下ろした。少しでも近くにいたいという恋心が、自然と彼女の身体を動かしていた。
「……ちょっと、ですか? 普通の人間であれば、あれだけの数の魔獣を相手に魔法と剣を乱使すれば、魔力切れと肉体疲労でその場に頽れ、疲れ果てていると思いますけれど。それなのに、ここからさらに歩いて街へ帰るつもりでいらっしゃるなんて……やはりあり得ませんわ」
「え、あり得ないのか? べつにそこまでの疲労感は無いんだけどな。使った魔法だって、初級のウィンドカッターとかファイアショットくらいだし、大した魔力は消費してないはずだぞ」
ヒビキは実感が湧かないといった様子で、澄んだ青空を見上げながらシアに言葉を返した。その無自覚な怪物ぶりに、シアは形の良い眉をひそめ、今度は完全に呆れ果てたような顔をして彼を覗き込んだ。
「あのウィンドカッターもそうですけれど、さっきのファイアショットだって、ただの初級魔法なわけがないでしょう? 威力を爆発的に上げるために、地属性のロックバレットを完璧に混合させて、溶岩の弾丸に変えて放っていましたよね……。混合魔法や合成魔法を初級と言い張るなんて、本当にどうかしていますわ」
シアはため息混じりに言いながらも、自慢の主の圧倒的な強さに胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。呆れた言葉とは裏腹に、彼女の赤い瞳は、隣にいるヒビキへの深い愛おしさと憧憬の光で満たされていた。
水鏡の恋、あるいは契約の唇
倒木の上に並んで腰掛けているというのに、ヒビキはただ穏やかに湖面を見つめるばかりで、シアに触れようとはしなかった。
出会ったばかりの頃、あれほど遠慮なく膝枕をして甘えてきたり、背後から抱きしめて頬を寄せてきたりしたというのに。一度拒絶されたことで、彼はすっかり淑女に対する礼儀を保つようになってしまっていた。
シアはその距離感がどうしても寂しくて、胸がキュンと締め付けられるように苦しくなっていく。彼を独り占めしていたあの温もりを、どうしてももう一度だけ感じたかった。
シアは膝の上で重ねた白く細い指先をぎゅっと握りしめ、頬を鮮やかな桃色に染めながら、一生分の勇気を振り絞って言う決心をした。
「あ、あの……ヒビキ様。召喚され、助けていただいたお礼に……その、特別に口付けをして差し上げますわ」
(わたしの……ファーストキスなのですけれど……)
恋愛経験のないシアなりに必死に考えた提案だった。男の子は可愛い女の子からのキスなら、何よりも喜ぶご褒美になるはずだと信じて疑っていなかったのだ。




