30話 深淵を裂く微風、あるいは常識の外側
深淵の揺らぎ、初めての甘い熱(2)
そして――視界の端で眩しく映るヒビキの横顔を見つめながら、シアはハッと胸の奥で息を呑んだ。
主従の契約で魂が縛られているから、ではない。この胸を優しく締め付けるような、もどかしくて、けれどたまらなく愛おしい感情の正体。それこそが、悪魔として何百年と生きてきて、初めて胸に宿した「恋」という名の、甘い熱なのだということに、彼女はついに気がついたのだ。
しかし、そんなシアの自覚とは裏腹に、昼食が進むにつれてヒビキの「過度なスキンシップ」はすっかり影を潜めてしまった。
先ほどの胸への接触を反省してか、ヒビキは節度を守るような、どこか一歩引いた態度を見せる。シアとしては、その配慮が逆に不満で仕方がなかった。もっと触れてほしい、もっとあの膝の上で、あの腕の中で、彼の温もりを感じていたいのに。心の中で溜まっていくもどかしい不満に、シアは何度も小さく唇を尖らせていた。
そうして、穏やかな昼食の時間はゆっくりと流れていき、午後を迎えた。
いつまでもこの平原に留まっているわけにはいかない。魔物や魔獣の討伐のために次の目的地へ移動しようと、ヒビキが身支度を整えて歩き出す。
「ほら、はぐれないようにな」
そう言って、ヒビキが自然な動作で右手を差し出してきた。
シアは、はにかむように頬を赤く染めながら、その少しゴツゴツとした、けれど何よりも温かい主の掌を、自身の白く細い指先でぎゅっと握り返した。
抱きしめられることも、頬を合わせることもないけれど。歩調を合わせて進む草原のなかで、繋いだ手から伝わってくる確かな鼓動だけが、今のシアにとって唯一の、そしてかけがえのない贅沢な熱だった。
深淵を裂く微風、あるいは常識の外側
目的の討伐エリアに入ると、周囲の空気は一変し、草むらの奥から獰猛な魔物の気配が漂い始めた。
シアは、これこそが自分が召喚された真の目的であるとばかりに、すっと赤い瞳を鋭く光らせて前衛に出ようとした。魔界の王女として、そして最上位の悪魔として、自慢の暴力と魔力で立ちはだかる敵を蹂躙し、己の有能さを主に示そうとしたのだ。
しかし、その一歩を踏み出そうとした瞬間、きゅっと手を引かれて身体が引き戻された。
「危ないから、シアは俺の後ろにいて」
ヒビキは当然のようにシアを自身の背後へと庇い、守る盾となるように立ちはだかった。
戦うために呼び出されたはずなのに、人間である主人に守られる立場になってしまう。シアは呆気に取られ、繋がれたままの手の温もりを意識しながら、ただヒビキの広い背中を見つめることしかできなかった。
その時、前方から硬い表皮を持つ巨大な魔獣が、地響きを立てて突進してきた。
ヒビキは落ち着いた様子で右手を前方にかざし、静かに魔法を紡ぐ。
「ウィンドカッター」
放たれたのは、ごくありふれた初級の風魔法だった。
しかし、緑色の鋭い風の刃が空気を切り裂いて飛んでいった瞬間、シアは言いようのない奇妙な違和感に襲われた。キィィンという、風属性の魔法からはおよそ発せられるはずのない、金属が擦れ合うような重い高音が耳を打ったのだ。
次の瞬間、本来であれば風属性の耐性を持ち、生半可な魔法など刃すら通さないはずの魔獣の分厚い皮膚が、まるで豆腐でも切るかのように一瞬で真っ二つに切り裂かれ、その巨体が崩れ落ちた。
「ヒビキ様、今の魔物は……風属性の魔法は全く効かないはずなのですが……」
シアは驚愕のあまり、繋いだ手に少しだけ力を込めながら問いかけた。耐性関係を完全に無視したその破壊力は、彼女の知る魔法の法則から著しく逸脱していた。
「あ、そうなのか? うーん、もしかしたら風魔法にちょっと地魔法を混ぜて使ってるから、効果があったのかもな」
ヒビキは仕留めた魔獣を一瞥し、何でもないことのように頭を掻きながら答えた。
「……えっと……混合魔法、をお使いに……? 魔法が苦手だと言っていた人間が、異なる二つの属性を、同時に遅延なく発動したのですか……?」
シアの引き攣った声が、静かな森に響いた。




