29話 深淵の懸念、あるいは少女の憂鬱
深淵の懸念、あるいは少女の憂鬱
「ん? どうした? もしかして、俺の膝の上が恋しくなったとか?」
おもむろにこちらを振り返ったヒビキが、からかうような軽い冗談交じりの声をかけてきた。
シアの心臓がドキンと大きく跳ねる。本心を見透かされたのではないかという恐怖と期待が入り混じり、彼女は瞬時に頬を鮮やかな桃色に染め上げた。
「ふんっ。そんなこと……ある訳、ないじゃない……!」
シアは慌ててそっぽを向き、ツンと澄ました声を絞り出した。けれど、膝の上で重ねられた白く細い指先は、落ち着きなくモジモジと動いている。顔こそ背けているものの、赤色の瞳はどこか不安げに、チラチラとヒビキの様子を伺うように泳いでいた。
「そっか……」
ヒビキは特に追及することもなく短く一言だけ返すと、焚き火の方へと向き直った。そして、じっくりと火が通って芳醇な香りを漂わせ始めている肉の串を、満遍なく焼けるように2本ともくるりと回転させる。
(はぅ……どうして、正直に……ただ一言「そうよ」って、素直に言えないのかしら、わたしは)
ヒビキの淡白な反応に、シアは胸がちくちくと痛むのを感じていた。
今までの魔界での暮らしでは、自分の望むことはすべて口にし、誰もが自分の指示に平伏して従ってきた。それなのに、この人間の少年の前では、どうしてこんなにも臆病で不器用になってしまうのだろう。
(ヒビキ様は……もう、わたしとのスキンシップに満足してしまったのかしら? それとも、わたしに興味がなくなってしまったとか……? ……もしかして、わたしに魅力が無いのかも。その、胸、小さいし……。さっき触ってみて、ガッカリして嫌気がさしたのね、きっと……!)
一度ネガティブな思考に囚われると、少女の形をした最上位悪魔の脳裏は、果てのないモヤモヤとした妄想で埋め尽くされていく。
あれから、ヒビキは肉の焼き加減に集中しているのか、こちらに構ってくれなくなってしまった。シアの胸には、先ほど恥ずかしさに負けて彼を拒絶してしまったことへの、深い後悔の念がじわじわと押し寄せていた。
(うぅーん……自分から拒否したけれど、でも……女の子にとって胸はデリケートな場所だし、簡単に触るのを許せることじゃないもの。それは間違っていないはずよ。……はあ、それともヒビキ様は、わたしに冷たく拒否されてショックだったのかしら? それともやっぱり、わたしの身体が子供っぽくて小さいから、一気に興味がなくなっちゃったの!?)
すぐ隣でパチパチと爆ぜる焚き火の音すら、今のシアの耳には届かない。
かつて数多の悪魔の軍勢を冷徹に率いていた若き支配者は、たった一人の少年の視線と、自身のささやかな胸のサイズを巡って、ただただ切なく身を焦がすように悩み続けているのだった。
深淵の揺らぎ、初めての甘い熱
ふいに、隣で衣擦れの音がして、ヒビキがゆっくりと立ち上がった。
シアが弾かれたように顔を上げると、目の前に、香ばしく焼き上がった肉の串と、小ぶりのパンが差し出される。
「もう肉は焼けてると思うぞ。質素な食事だけど、我慢してくれな」
差し出された食事から、炭火特有の実に食欲をそそる芳醇な香りが立ち上っていた。しかし、今のシアにとって、食事のことなど正直どうでもよかった。目の前のヒビキの、その一挙手一投足が気になりすぎて、胸が胸がいっぱいで、ただ小さくこっくりと頷くことしかできなかった。
ヒビキは自らの石に戻って腰掛け、肉に勢いよくかじりついた。もぐもぐと咀嚼し、その美味さに満足そうに目を細めると、不意に、隣に座るシアの頭へと大きな掌を優しく乗せた。
そうして、さらさらとした彼女の黒髪をゆっくりとなぞるように撫でていく。
「シアの作った肉、美味いな」
言葉に続けて、ヒビキはいたずらっぽく微笑みながら、シアの熱を帯びた頬を親指と人差し指でぷにぷにと、柔らかく愛おしそうに摘まんだ。
その瞬間、シアの胸の奥深くから、ヒビキに触れられたという純粋な喜びが、止めどない濁流のように溢れ出してきた。
嫌われていなかった。ガッカリなんてされていなかった。ただそれだけの事実が、彼女の心をこれ以上ないほどに満たしていく。
「んふふ、そう……? がんばって作った甲斐がありますわ♪」
それまでの暗い妄想や、胸を支配していたモヤモヤとした鬱屈が一瞬にして消し飛び、シアは思わず『にぱぁ』と、まるで花が開いたかのような、この上なく幸せそうな笑顔を咲かせた。




