26話 深淵の温もり、あるいは無垢な抱擁
深淵の食卓、あるいは悪魔の拗ね顔(2)
しかし、シアにとって「意地悪を言われる」ことも「からかわれる」ことも、これまでの人生で一度として存在しない未知の経験だった。
「へ? ちょ、ちょっと……ま、待ちなさいよ!」
シアはあからさまに狼狽し、立ち上がろうとしたヒビキの服の裾を慌てて両手でギュッと掴んだ。
「今……食べたいって、ちゃんと言ったじゃないの。ね、ねえ……わたしは何を手伝えばいいのかしら? 火起こし? それともお肉の味付け?」
シアは潤んだ赤色の瞳でヒビキのことを見上げると、恥ずかしそうにすっと視線を落とした。小さな肩をすぼめ、自身の黒いドレスの裾をモジモジと弄びながら、子供のように甘えるような声音でぽつりと呟く。
「……ヒビキ様の、いじわるぅ……です、わ」
頬をほんのり桃色に染めて拗ねる最上位悪魔のその姿は、魔界の統治者としての威厳など微塵も感じられないほど、ただただ無防備で可憐だった。
深淵の温もり、あるいは無垢な抱擁
必死に拗ねてみせるシアの愛らしい様子に、ヒビキの口元は自然と緩んだ。彼は肉を切り分けていたナイフをそっと傍らに置くと、地べたに座ったまま、優しく微笑んで両手を左右に大きく広げてみせた。
シアは伏せていた視線をチラリと上げ、そのヒビキの意図の読めない行動に、驚いたように赤色の瞳を丸くした。
「な、なによ……? うぅぅ……なに? これは、その……仲直りってことかしら……」
魔界の頂点に君臨していたシアには、これまで対等に話せる存在などおらず、当然ながら友人というものもいなかった。誰かと喧嘩をしたこともなければ、ましてやその後に仲直りをするなどという温かい経験は皆無だ。
先ほどヒビキが意地悪を言ってきたことだけは理解できたため、彼女は己の至高の知性をフル回転させ、目の前の広げられた両手が「仲直りを求めているサイン」なのだと懸命に分析したのだった。
シアはドレスの裾を小さく揺らしながら、雪の上を歩くようにゆっくりとヒビキの方へと歩み寄った。そして、恥ずかしさのあまり顔を真っ赤に染めて視線を斜め下へと逸らしながら、そっとヒビキの身体へ軽く抱きついた。
「こ、これで良いのかしら……」
シアは心臓の激しい鼓動を隠すように、ヒビキの広くて温かい胸の中にすっぽりと顔を埋め、消え入りそうな小さな声で、どこか自信なさげに聞いてきた。
「悪かったな。別に喧嘩をしたわけじゃないだろ。仲直りする必要もないと思うぞ……元々、仲が悪くなったわけじゃないんだし」
ヒビキは胸元から伝わってくる彼女の心地よい体温を感じながら、少しだけ困ったように笑った。
「本当なら俺もちゃんと両手でお前を抱きしめたいんだが、さっきまで肉を切り分けていたから手が汚れててさ」
そう言ってヒビキは、汚れた手のひらが彼女の豪華なドレスに触れないよう、自身の前腕と腕全体を優しく彼女の背中に回し、包み込むようにしてぐっと引き寄せた。
その瞬間、シアの胸の奥がキュンと切なく、そして堪らないほど愛おしい感情で満たされた。悪魔としての長い歴史の中で、こんなにも優しく、損得なしに他者から抱きしめられたことなど一度もない。彼女はヒビキの背中に両手を回すと、今度は自分から、彼の存在を確かめるように力強くその身体を抱きしめ返した。
「いいわよ、その分……後で手が綺麗になったら、もっとたくさん抱きしめてくだされば……」
胸に顔を埋めたまま、シアは蕩けるような甘い声で、けれど確かな独占欲を滲ませて静かに囁くのだった。




