25話 深淵の食卓、あるいは悪魔の拗ね顔
深淵の揺り籠、青空のまどろみ(2)
シアはどこまでも澄み渡る青空を見上げた。爽やかなそよ風が平原を駆け抜け、彼女の夜空のように美しい黒髪をさらさらと優しくなびかせる。
「わたし……一体何をしているのかしら……きゃっ!?」
ふと我に返って小さく呟いたその刹那、膝の上のヒビキがうとうとと心地よさそうに身じろぎし、寝返りを打った。その拍子に彼の身体が膝から滑り落ちそうになる。
シアは驚き、大切なガラス細工でも扱うかのように慌てて両腕を伸ばし、彼の身体を必死に抱きかかえるようにして受け止めた。だが、その勢いのまま自分も芝生の上へと引きずり倒され、結果として、ヒビキとぴったりと身体を寄せ合って添い寝をするような不器用な体勢になってしまった。
「うむむむ……これ、完全に上下が逆よね……。なんで、このわたしが人間の男の子に腕枕なんてしているのかしら……」
ヒビキの頭を自らの細い腕に乗せ、腕枕をした状態のまま、シアは草原に二人で寝転がりながら再び天を仰いだ。
文句を口にしつつも、彼女の腕のなかからはトクトクと健やかな心臓の音が伝わり、耳元では規則正しい安らかな寝息が響いている。シアはスッと青空から視線を外し、自らの腕のなかで無防備に眠るヒビキの顔へと目を移した。
整った、けれどまだ少年らしさの残る横顔。それをじっと見つめていると、魔界での緊迫した日常では決して得られなかった穏やかな感情が胸を満たし、シアの引き締まっていた表情は自然と緩んでいく。張り詰めていた心が、ただ彼の寝顔を見ているだけで不思議と優しく癒やされていくのが分かった。
「まあ、いいわ……たまには、こんな時間があっても……ね。それにしても、わたしみたいな悪魔を前にしてここまで安心しきって……本当に、かわいい寝顔よね……」
誰も見ていない平原で、シアがふふっとニヤニヤと締まりのない微笑みを浮かべていた、その時だった。
ヒビキが再び無意識に頭を動かし、ぴとっ、とシアの柔らかな頬に、自らの少し熱を持った頬をぴったりと押し付けてきたのだ。
「はぅ……っ!? な、なによこれ。起きてるんじゃありませんの!? ちょ、ちょっと……ヒビキ様!?」
肌と肌が直接触れ合うあまりの密着振りに、シアの心臓は今日一番の激しい警鐘を鳴らし、全身の血が一気に沸騰したかのように赤くなった。
慌てて彼を引き剥がそうと身をよじるシアの腕の中で、ヒビキはゆっくりと長い睫毛を揺らし、その瞳を開いた。
「……ん? お前の頬、なんかぷにぷにで、すべすべしてて気持ち良いな……。ふあぁ~、よく寝た……」
ヒビキはまだ半分夢の中にいるような声で、自身の行動がどれほど大胆なものであるかなど全く気にしていない様子で平然と言い放った。
そのあまりに自然体な態度を前に、膝枕に続いて腕枕、挙句の果てには頬をすり寄せ合うという至近距離での接触を一気に経験させられたシアは、内心の激しい動揺を隠すこともできず、ただただ真っ赤な顔をして息を呑むことしかできなかった。
深淵の食卓、あるいは悪魔の拗ね顔
「そろそろ昼か。何か食うか……。シア、お前は飯を食えるのか?」
ヒビキは上体を起こしながら何気なく問いかけ、探索魔法で周囲の状況をさらりと探った。近場にちょうど手頃なワイルドボアの気配を捉えると、即座に人差し指の先から極小の魔力弾を放つ。ドォンと微かな風切り音が響いた次の瞬間には、獲物は完璧に仕留められていた。
空間魔法を応用して手際よく獣の肉を切り分け、調理の準備を進めながら、ヒビキは隣のシアへと視線を戻す。
「え、えぇ……食べられるわよ。食事をしなくても魔力だけで問題ないですけれど……。主様がどうしてもと言うなら……頂いてあげてもよくってよ」
シアはこれまでの長い人生で誰かの下についた経験が皆無だったため、どうやって従者として甘えれば良いのか、その適切な距離感が全く分からなかった。つい、魔界の王女としての尊大なプライドが邪魔をして、素直になれない返事をしてしまう。
「なんだそれ。お前……完全に手伝う気がなさそうな言い方だよな。食べる必要がないなら、無理に食わなくても良いか」
ヒビキは肉を火にかける手を止めず、わざと冷淡なトーンで返した。もちろん本気で怒っているわけではない。少しツンとした態度を見せるシアの反応がどこか愛らしくて、ほんの少し意地悪をして彼女の可愛いリアクションを見てみたいという、ちょっとした悪戯心からだった。




