24話 深淵の膝枕、あるいは微睡みのなかで
深淵の膝枕、あるいは微睡みのなかで
ヒビキは朝早くからお忍びでの街歩き、衛兵たちとの想定外のトラブル、そしてこの平原での命がけとも言える最上位悪魔の召喚と、息つく暇もない時間を過ごしていた。いくらレベル600という規格外のステータスを持ち、魔力値が底知れないとはいえ、慣れない出来事の連続に心身の疲労は確実に蓄積していたのだ。
ふあ、と小さく欠伸を漏らし、ヒビキは重くなってきた瞼をこすりながら呟いた。
「俺、少し寝るわ……」
「えっ……!?」
ヒビキのあまりにも無防備な言葉に、シアは思わず目を丸くして驚いた。
ここは凶暴な魔物や野生の魔獣がいつ飛び出してきてもおかしくない危険な平原だ。おまけに、目の前にいるのは先ほどまで殺し合いを演じかけ、無理やり従者契約で縛り付けたばかりの悪魔の少女である。そんな状況下で、完全に無防備になる「睡眠」をとろうとするなんて。
普通なら警戒して絶対にあり得ないはずの行動。それが意味するのは、ヒビキがこの短い時間の間に、シアという存在を心から信用し、背中を預けているという何よりの証拠だった。主からの絶対的な信頼を感じ取り、シアの胸の奥には、驚きと共にじわじわと温かい嬉しさが溢れかえっていく。
シアは急に恥ずかしくなり、真っ赤になりそうな顔を隠すようにふいっとそっぽを向いた。そして、ツンと澄ました態度で照れ隠しをするように言葉を絞り出す。
「そ、そう……寝るの? じゃあ……その、仕方のない主様ね。ひ、膝枕くらい、してあげてもいいわよ……?」
口調こそ冷淡な従者を装っていたが、彼女の白い頬はすでに綺麗な桃色に染まり、視線は恥ずかしそうに地面へと落とされている。細い指先をドレスのフリルの上でモジモジと動かす姿は、どこからどう見ても余裕のない恋する乙女のそれだった。
しかし、極限の眠気に襲われていたヒビキは、彼女のそんな葛藤や可愛らしい変化に気づく余裕など微塵もなかった。
「悪いな、シア。少し甘えさせてもらうな」
ヒビキは特に深い意図もなく、隣に座るシアの膝の上へと躊躇なく頭を乗せた。
それどころか、位置を落ち着かせるようにして、彼女の柔らかいお腹のあたりにぐいっと顔を埋めるようにして身を委ねる。
「ひゃぁっ……!? あ、うん……」
下腹部に触れるヒビキの髪の感触と、あまりの距離の近さに、シアは短い悲鳴を上げて身体をビクンと強張らせた。心臓がうるさいほどに鐘を打ち鳴らし、顔中から火が出るのではないかと思うほど熱くなっていく。
「随分と遠慮なしなのね……。わたしたち、さっき会ったばっかりなのよ……?」
シアは戸惑いつつも、怒る気にはなれなかった。それどころか、自分の膝の上で無邪気に安らかな寝息を立て始め、子供のように甘えてくるヒビキの姿が、愛おしくてたまらなくなる。
彼女はおずおずと細くしなやかな手を伸ばすと、宝物に触れるかのように優しく、ヒビキの艶やかな髪をゆっくりと、愛おしそうになぞるようにして撫で始めるのだった。
深淵の揺り籠、青空のまどろみ
シアは本来、魔界にいくつか存在する強大な王国のうちの一つにおいて、広大な領土を統治する至高の王女だった。
倫理や血筋ではなく、ただ純粋な強さと圧倒的な魔力だけがすべてを支配する過酷な悪魔の世界。そこで彼女は性別や年齢という枷をものともせず、その双方の頂点に立って数多の上位悪魔たちを従え、領地を守護し続けてきた絶対者だったのだ。
そんな魔界の至宝たる自分が、今や人間の世界の静かな草原で、出会ったばかりの一人の少年に召喚され、魂を縛る従者契約を受け入れ、こうして膝枕をして髪を撫でている。そして何より、その状況に形容しがたいほどの深い幸福感を抱いている自分に、シアは言いようのない戸惑いを覚えていた。




