21話 深淵の主従
深淵の主従
つい先ほどまで不愛想で傲慢な態度を取っていた美少女が、泥を被るのも厭わずに必死に涙を浮かべて許しを請うている。そのあまりにも無防備で弱々しい姿を見ていると、ヒビキの胸の奥に、少しばかりの同情と哀れみの感情がふわりと湧き上がってきた。
これ以上、無用な恐怖で彼女を追い詰める必要もないだろう。ヒビキは小さく息を吐き出すと、彼女を縛り付けていた透明な結界をすっと霧散させて解放した。
「好きにすればいいよ。帰っても良いし……。でも、次に俺に対して少しでも攻撃をしてくるようなら、今度は言い訳や命乞いをする時間さえ与えずに、一瞬で消えてもらうからな」
ヒビキは釘を刺すように静かなトーンで告げると、脅しを兼ねて、彼女の艶やかな黒髪のすぐ真上へ、新たに異次元魔法を行使した。
出現したのは、光すら吸い込んで歪ませる超重力の暗黒、ミニチュアのブラックホールだ。空間そのものがピキピキと悲鳴を上げてその極小の球体へと歪んでいく光景は、絶対的な破滅を視覚化したかのように恐ろしかった。
「へ? わぁっ、や、やめてっ……! 分かった、分かったから! はい、ほら……従者契約でいいわよっ!」
頭上をかすめる圧倒的な死の気配に、シアは短い悲鳴を上げて頭を抱え、さらに身を縮こまらせた。
彼女が差し出したのは、対等な協力関係を結ぶ通常の「召喚契約」ではなかった。主人の命令には絶対服従であり、精神的にも肉体的にも決して逆らうことができなくなる、魂を縛るための最上位の「従者契約」だった。
その瞬間、ふたりの足元の芝生が、まるで水を打ったように波打ち始める。
先ほどとは打って変わった、どこか厳かで神聖な紫色の魔力光が円を描き、複雑に絡み合う美しい幾何学模様の魔法陣を形作っていった。
「ほ、ほら……これでいいんでしょ、従者契約よ。……わたしはシアよ……」
彼女は赤色の瞳にまだ薄っすらと涙を溜めたまま、観念したように自分の名を口にした。
ヒビキがその従者契約を受け入れる意思を示すと、頭上で怪しく渦巻いていた超重力の暗黒が、まるで初めから存在しなかったかのようにすっと静かに消え去った。
主従の契りを世界が承認した、その刹那。
ふたりを包み込んでいた紫色の魔法陣が、まるで祝福の鐘の音を響かせるかのように、一段と眩しく、それでいてどこか優しく淡い光を放ち始めた。
光は幾千もの細かな結晶の粒子となって魔法陣から湧き上がり、きらきらと夜空の星屑のように宙を舞う。風に揺れる金色の光の粒が、シアの漆黒の髪や、ヒビキの地味な綿の服を優しく撫でていく。
やがて、その幻想的な光のシャワーは、契約が完全に受領されたことを示すように、微かな甘い香りを平原に残して、静かに、そして美しく空気の中に霧散して消えていった。
静寂が戻った草原の中、新しく『シア』という絶対服従の配下を得たヒビキは、まだ驚きと安堵で胸をなだめ下ろしている悪魔の少女を、どこか妙な縁を感じながら見つめ返すのだった。
揺蕩う青と、従者のぬくもり
すべての光の粒子が完全に夜の闇へと溶け込むように消え去った後。シアはまるで信じられないものを見るかのように、その場に呆然と立ち尽くしていた。
しかし、すぐさまおずおずとした足取りで一歩、また一歩とヒビキへと近づいてくる。その端正な顔立ちには、あからさまな困惑と、魂の底から湧き上がる驚愕の色が張り付いていた。
「あ、あなた……一体、何者なのかしら……。魂が繋がって、やっと理解できたわ。この魂の気配、絶対にただの人間なんかじゃないわね……。底が見えないほどの膨大な魔力と、まるで世界そのものに押し潰されるような、異様なまでの圧を感じるのだけれど……」
シアは自身の華奢な胸元にそっと手を当て、いまだにトクトクと不規則に脈打つ心臓の鼓動を確かめるように呟いた。契約によってパスが繋がったことで、彼女はヒビキが秘めている「レベル600」という常軌を逸した規格外の全貌を、本能的に察知してしまったのだ。
対するヒビキは、大袈裟な彼女の反応に少しだけ肩をすくめ、困ったように苦笑いを浮かべて答えた。
「俺はヒビキだ。ただの人間だぞ。よろしくな、シア」




