22話 深淵のささやき、あるいは少女の戸惑い
揺蕩う青と、従者のぬくもり(2)
「人、間……?」
シアはあからさまに顔を引き攣らせた。そんな冗談が通用するはずもない圧倒的な存在が目の前にいるのだ。
彼女はそれ以上追求することを諦めたように、ゆっくりと寝転がっているヒビキの足元へと移動した。そして、仕立ての良い黒いドレスの裾を整えながら、すっと背筋を伸ばして美しく直立する。お腹の前で白く細い両手を上品に重ねて握り、じっとヒビキの指示を待つその姿は、先ほどの尊大な悪魔の面影など微塵もない、完璧に教育された忠実な従者のそれだった。
「ヒ、ヒビキ様ね……。それで、わたしはまず、何をすれば良いのかしら? どのような命令でも、お望みのままに執行いたしますけれど……」
少しだけ緊張を孕んだシアの問いかけ。何を命じられるのかと身を強張らせる彼女を見上げながら、ヒビキはただ、穏やかで優しい微笑みをその唇に湛えた。
「隣に座ってくれるか?」
「……え?」
シアはぱちぱちと大きな赤色の瞳を瞬かせ、不思議そうに首を傾げた。もっと恐ろしい命令や、過酷な使役を覚悟していたのだろう。
拍子抜けしたような顔をしながらも、彼女は「わ、分かったわ」と小さく囁き、促されるままにヒビキのすぐ隣の芝生へと、そっと腰を下ろした。
ふわりと、彼女の纏う黒いドレスから、深夜の寝室を思わせるような、どこか退廃的で甘いインセンスの香りが漂ってくる。
「はあ……。俺は、ただ普通に、話を聞いてくれる人が欲しくてな……」
ヒビキは大きく、胸の奥に溜まっていた澱をすべて吐き出すようにため息をついた。
そうして、どこまでも高く、どこまでも青く広がる吸い込まれそうな空を、ただじっと見つめながら静かに呟くのだった。
深淵のささやき、あるいは少女の戸惑い
シアは、今度こそ完全に理解が追いつかないといった様子で、その可憐な首をさらに深く傾げた。
深淵に住まう最上位の悪魔をこの世に呼び出すということが、どれほど狂気じみた大儀式であるか。当然、血みどろの戦闘や、国家中枢の暗殺、あるいは領土の蹂躙といった悍ましい命令を下されるものとばかり身構えていたのだ。
「そ、そうなの……?」
シアは怪訝そうに赤い瞳を揺らし、膝の上のドレスに視線を落とした。
「わたしはただ、ヒビキ様のお話を隣で聞いていれば宜しいのかしら?」
あまりにも肩透かしなその状況に、どこか所在なげに指先を動かしている。
「まあ、そうだな。俺さ、今までずっと最弱って呼ばれててさ。マジで運動神経も魔法も全然ダメだったんだけど、いきなり強くなっちゃって、正直かなり戸惑ってるんだよな」
ヒビキのその何気ない独白は、シアにとってさらなる大混乱の引き金でししか世界に響かなかった。
魂の繋がりを通じて感じ取った主の規格外の気配は、ただの人間はおろか、超越者である自分をも遥かに凌駕する絶対的な深淵そのもの。それなのに、本人は至って本気で自分を最弱だったと言い張っているのだ。
「え……ヒビキ様が最弱? あり得ないわ……」
シアは美しい顔をあからさまに引き攣らせ、呆れたようにため息を吐く。
「普通どころか、人間の中で最強と言われるような英雄でさえ、このわたしを呼び出すことなんて不可能なの。もし万が一、奇跡的に呼び出せたとしても、契約なんて絶対に交わせない」
彼女はすっと人差し指を立て、ヒビキの顔の前に近づけた。
「もし、わたしと無理に契約を交わそうとしたら……相手の魂が耐えきれずに砕け散って死ぬわよ。例えるならそうね、初心者の駆け出し冒険者が、いきなり魔王を召喚したようなものだわ」
シアは誇らしげに胸を張り、ふんと鼻を鳴らす。
「魔王が初心者の冒険者に頭を下げて、お世話や面倒を見ると思う? 召喚された魔物はね、主としての力量を試す時に、弱いと判断すればその場で召喚主を殺すのよ。弱い主に仕えるなんて、わたしたちにとっては一族の恥であり、最大の屈辱だから。もしも……」
そこでシアは言葉を区切り、少しだけ声を潜めて言った。
「たとえ契約をしたとしても、初心者の冒険者が魔王を現界させ続けるだけの魔力を保有しているわけがないでしょ? 召喚した相手が強ければ、この世界に維持するためだけでも、それに見合っただけの魔力を常に消費され続けるのが召喚術の絶対的な常識ですもの」
もしこの場に本物の恋愛経験豊富な人間がいたならば、「それはただの罠ではなく、彼女が本気で惚れ込んでいる証拠だ」と指摘したことだろう。だが、ヒビキが今この悩みを打ち明けている相手は、深淵から召喚されたばかりの、恋の『こ』の字も知らない最上位悪魔の少女だった。彼は完全に、恋愛の相談をする相手を間違えていた。
ヒビキの言葉を聞いたシアは、膨らませていた頬をゆっくりと戻し、今度は呆れたような、そしてどこか深く心配するような複雑な眼差しを彼に向けた。
「ふうん……その方が、気があるように思わせてくる訳なのね。まったく……人間の男って、そういう分かりやすい態度で簡単に騙されるんだから。ヒビキ様、絶対に気を付けなさいよっ」
シアは少しだけ身を乗り出し、ヒビキの顔を覗き込むようにして警告した。彼女自身、なぜ自分がここまでその「幼馴染の女」に対して敵対心を燃やしているのか、その理由を正確には言語化できていない。ただ、ヒビキの意識が自分以外の誰かに向いていることが、どうしても面白くなかったのだ。
それからしばらくの間、静かな平原の中で、二人の奇妙な対話は続いた。
ヒビキは寝転がったまま、リサーナにどれほど酷い悪口を言われてきたか、ザックたちにどんな仕打ちを受けてきたかを、ぽつりぽつりと吐き出していく。シアは彼の隣で膝を抱え、時には彼の過去の苦労に同情して胸を痛め、時にはその幼馴染の横暴さに憤慨しながら、彼の話をただ静かに、けれど真剣に聞き入っていた。
話が一段落着いた頃、シアはヒビキの横顔をじっと盗み見た。
彼の繋がった記憶や感情の断片を手繰り寄せ、一つの確信に至る。ヒビキは今、その幼馴染の女の子の行動に激しく困惑し、警戒しているだけであって――決して、彼女に対して特別な恋慕の情や、深い思い入れを抱いているわけではないのだと。
(……あ)
それを理解した瞬間、シアの胸の奥を占めていた重苦しいモヤモヤが、まるで嘘のようにすっと引いていくのを感じた。
それと同時に、ヒビキが他の女のモノにならないという事実に、自分が酷くホッと安心していることに気がついてしまう。
(わたし、何を安心しているのかしら……? この方は、わたしを力で屈服させた恐ろしい主人のはずなのに……)
トクン、と胸の奥で小さな鼓動が跳ねる。
シアは自身の頬が、夕焼けよりも早く、ほんのりと赤く染まっていくのを自覚した。彼女は慌てて顔を伏せ、風に揺れる黒髪でその表情を隠すようにしながら、ただ隣で呼吸を繰り返すヒビキのぬくもりを、そっと肌で感じ続けるのだった。




