20話 深淵の誓約
深淵の囚われ人(2)
「ひゃっ。な、なによこれ!? ちょっと、何をしたのよっ!?」
己が放った炎の余波が、外に逃げることなくすべて自分の方へと跳ね返ってくることに驚き、女の子は慌ててそれを霧散させた。
焦りを隠すように、彼女はすぐに不気味な呪詛の詠唱を唱え始める。すると、彼女の白く細い手元に、空間を引き裂くようにして漆黒の大鎌が現れた。
「ふんっ、こんなモノ……対策済みよっ!」
女の子は大鎌を頭上高くに構えると、自らの全体重を乗せ、凄まじい風切り音を立てて結界の壁へと刃を振り下ろした。
キィーン……!
静かな平原に、まるで超高純度の水晶同士がぶつかり合ったかのような、極めて硬質で甲高い音が一度だけ鳴り響いた。
しかし、それだけだった。
最上位悪魔が全力で振り下ろした大鎌をもってしても、ヒビキが張った結界の表面には、髪の毛一本ほどの傷すら付いていなかったのだ。
「……こ、これは、いったい……どういうことなの!?」
あり得ない光景を前に、女の子の顔から血の気が引いていく。
「結界やバリア、封印の類に対する破壊術式は、すべて対策済みよ……! 何なのよこれ……!? わたしのこの大鎌は、どんな高度な多層結界であっても抵抗すら感じずに切り裂き、その中にいる人間ごと、その魂すら一刀両断にできるはずなのに……! これは一体、どういうことなのよ!」
絶対的な自負を完璧に打ち砕かれ、女の子はパニックに陥ったように瞳を細かく震わせた。大鎌を握る手の力は完全に失われ、へなへなとその場に崩れ落ちると、地べたに座り込んだまま、絶望に満ちた表情で天を仰いで叫ぶことしかできなかった。
深淵の誓約
絶望に打ちひしがれる悪魔の女の子を冷徹に見下ろしながら、ヒビキはただ面倒そうに、一つ大きいため息を吐き出した。
「放置してたら攻撃をされそうだったから、その前にお前を封じておいただけだけど……。それじゃ、お前には悪いけど……消えてもらおうかな」
かつて彼女自身が傲然と言い放った冷酷な言葉を、ヒビキは皮肉を込めてそのままそっくりな口調でなぞってみせる。
そうして彼は、新しく習得したばかりの異次元魔法を静かに発動させた。
音もなく空間が歪み、そこへ吸い込まれるような漆黒の球体が出現した。まるで空間そのものにぽっかりと穴が穿たれたかのような、光すら届かない完全なる虚無の領域。
最上位の悪魔たる彼女は、この世界において不老不死とも呼べる強靭な魂と肉体を持っていた。しかし、ヒビキが今その目の前に展開したのは、物理的な肉体を損なうための破壊魔法ではない。何ものも干渉できず、時間の概念すら曖昧な虚無の底へ、永劫に閉じ込めるための超越的な空間魔法だった。
不老不死であるがゆえに、彼女は死ぬことすら許されない。光も音も、他者の気配も一切存在しない無限の暗闇の中で、永遠に狂気に蝕まれながら、死ぬことよりも遥かに凄惨な苦痛を味わい続けなければならないのだ。
「え? や、やめて……ちょ、ちょっと待ちなさいよ。あんた、何をする気……!? やっ、おねがい……たすけて!」
その黒い球体が放つ、この世のものとは思えない絶対的な終焉の気配を肌で感じ取り、女の子は猛烈な悪寒に襲われて体を縮め、ガタガタと震え出した。
彼女は泥の上に座り込んだまま、透き通るような美しい赤色の瞳に怯えるような涙を浮かべ、すがるようにヒビキのことを見上げ、枯れそうな声で必死に叫んだ。
「あなたの実力は理解したわ! 主だと認めるし……生涯の忠誠を、すべてあなたに捧げるわ……!」
その悲痛な叫びを聞いた瞬間、ヒビキの脳裏に、ふと前世で慣れ親しんだファンタジーゲームの数々の記憶がふわりと蘇った。
そうだ。召喚された強力な魔獣や誇り高き悪魔というのは、得てして最初に召喚主が自分を従えるに値する器を持っているかどうかを、力ずくで試してくるのがお決まりのパターンだった。
(なるほどな。こいつも、最初の攻撃は単なる『小手調べ』のつもりだったってことか……)
ヒビキはゆっくりと右手を下ろし、迫り来る黒い球体の展開をぴたりと止めた。
目の前で、この世の支配者の一角たる最上位の悪魔が、小さな子供のように涙を零しながら、自分という絶対強者を前にしてただ平伏し、忠誠を誓う瞬間をじっと見つめながら。




