19話 深淵の囚われ人
深淵の少女と、不破の盾(2)
今の彼が本当に求めていたのは、ややこしい駆け引きやトゲのある言葉を投げかけてくる相手ではない。ただ静かに自分の話を聞いてくれて、優しく慰めてくれるような、穏やかな癒やしの存在だったのだ。
(……よく考えたら、悪魔じゃなくて天使を召喚しておけばよかったな)
そんな後悔が頭をよぎり、ヒビキはふっと息を吐くと、少し不機嫌そうな声音で言葉を返した。
「それなら気に入らなければ、さっさと自分の世界に帰ってもらって良いぞ。試しに召喚をしてみただけだしな」
「はあ!?」
女の子は心底心外だと言わんばかりに、美しい赤色の瞳を大きく見開いた。
「わたしを呼び出しておいて……その言い方は、あまりにも失礼じゃないんですの!? わたしを誰だと思っているのかしら……最悪だわ。これでも、深淵に君臨する最上位の悪魔なのですけどっ! あなただって、わたしをこの世界に召喚するのに、魂を削るような膨大な魔力を消費したと思いますけれど……? んふふ……でも、まだ正式な契約前ですし、わたしには全く関係のない事ですわね。――ふっ、死になさいっ!」
冷酷な嘲笑とともに、彼女の指先が鋭くヒビキへと向けられた。最上位悪魔が放つ、大気を焼き焦がすほどの極大の破壊魔力が、凶悪な光条となってヒビキの肉体を消し去らんと殺到する。
しかし、ヒビキの表情に焦りの色は一切なかった。
彼は召喚魔法を試すより前、万が一の事態に備えて、ステータス画面から結界魔法のレベルをBPを使って最大値まで一気に引き上げておいたのだ。
ドォン! と平原に凄まじい衝撃音が響き渡り、激しい爆風が草波をなぎ払う。
だが、その光が収まった後に現れたのは、煤一つついていない平然とした表情のヒビキの姿だった。
極大の魔力を完全に無効化し、周囲の空間を完全に守り抜いたのは、ヒビキの周囲に淡く展開された半透明の壁。
最大レベルまで強化された彼の結界魔法は、音や温度、あらゆる打撃といった物理的な衝撃は言うに及ばず、神聖・暗黒を問わないすべての魔法すら完璧に遮断する複合結界だった。さらに、術者を中心に超長距離の広範囲に及ぶ防壁を瞬時に展開することも可能であり、その強度はこの世界のいかなる伝説の魔器をもってしても傷一つつけられないほど、異常なまでに硬いものへと昇華されていたのである。
深淵の囚われ人
ヒビキは息を吐き出すと同時に、うるさい虫を払うように、おもむろに右手を悪魔の女の子の方へと向けた。
その瞬間、彼女を完全に包み込むようにして、球状の無色透明な結界が瞬時に展開される。
「はあ。召喚主に、いきなり敵意というか殺意を向けてくるとはね……。呼び出しておいて悪いけど、お前……大人しく帰らないなら消えてもらうわ」
ヒビキが面倒くさそうに冷淡な声音で告げながら、目の前に表示されていたステータス画面を指先で滑らせる。
手始めに空間魔法のレベルをBPで一気に引き上げてみると、視界の端に新たな光が灯り、上位魔法である『異次元魔法』という表記が新たに現れた。
(やっぱり、上位魔法は下位の魔法レベルを上げると自動的に更新され、さらに上位のものが表示されて使えるようになるっぽいな)
仮説が証明されたことに小さく満足しながら、ヒビキは躊躇うことなく、その新しく表示されたばかりの異次元魔法のレベルを最大値にまで引き上げた。
一方、自身が目に見えない強固な結界に覆われたことすら気づいていない悪魔の女の子は、不機嫌そうに赤色の瞳を吊り上げた。
「ふん、小癪な小細工を……! 焼き尽くされなさい!」
彼女の指先から、大気を激しく歪ませる黒紫色の怪しい獄炎――ヘルフレイムが放たれた。しかし、その凶悪な炎はヒビキに届く手前で、まるで目に見えないガラスの壁に遮られたかのようにその場に留まり、球体状の結界の内側だけを激しく覆い尽くした。




