12話 蜜月への序曲蜜月への序曲
蜜月への序曲
「はあ、分かったよ。それでリサーナは、何をしたいんだよ」
ヒビキは諦めを滲ませた溜息を、木漏れ日がきらきらと揺れる芝生の上へと吐き出した。
視線を落とせば、己の服の裾をぎゅっと掴んでいる彼女の、驚くほど白く細い指先が目に入る。指先は微かに震えており、掴む力を強めるたびに、上等な生地がキュッと微かな音を立てた。
いやいや、とヒビキは心の中で激しく首を振る。
そもそも、リサーナと自分とで、共通して盛り上がれるようなまともな話題などあるはずがない。
今、ヒビキが寝ても覚めても考え、検証したくてたまらないのは、新しく手に入れた強力な魔法や不思議なスキルの性能、そしてこの世界における効率的な力の行使方法だけなのだから。
「お話ね……俺と話題が合うと思えないんだけどな……」
ヒビキは首筋をぽりぽりと掻きながら、気まずそうに顔を逸らし、あらかじめ予防線を張るように呟いた。
だが、リサーナはそんな彼の消極的な態度など、気にも留めていない様子だった。
「え、そんなことないわよ……!」
リサーナの声は、以前のような棘に満ちた冷たさなど微塵もなく、まるで鈴の音を転がしたように甘く弾んでいた。
「ヒビキは、どんなお話をしたいのかしら? なんでも、何についてでも良いわよ? あなたの話なら、わたし、ずっと聞いていたいもの……」
心底楽しそうにそう語る彼女の姿を横目で見ながら、ヒビキはかつての苦い記憶を呼び起こし、喉元まで出かかったツッコミをどうにか飲み込んだ。
お前、昔は俺の顔を見ているだけでイラつくとか、最弱の無能が視界に入るなとか、それはそれは冷酷な言葉を浴びせていたよな。あの時のお前の冷徹な氷のような眼差しは、一体どこへ消えてしまったのだ。
そんな内心の困惑を必死に押し殺しながら、ヒビキは適当に、今一番関心のある単語を口にした。
「んー……魔法とか、スキルかな」
「そう。魔法やスキルね! 良いわよ♪ その前に……ですね……」
その瞬間、リサーナの顔がぱっと明るい花が咲いたように輝いた。
彼女は嬉しそうにニコッと唇の端を吊り上げて微笑み、ふわりと甘い花の香りを周囲に振り撒きながら、上半身を少し前のめりにしてヒビキの方へと近づいてきた。
彼女の美しい青い瞳が、真昼の太陽の光を浴びて、まるで澄んだ海のように潤んだ光を湛えている。
近づいたリサーナの吐息が、ヒビキの頬をそっと優しく撫でる。
桃色に染まった柔らかそうな頬、乱れた髪から覗く白く滑らかな首筋、そして上着の隙間からちらりと覗く鎖骨の繊細なラインが、彼女の積極的な動きに合わせてヒビキの視界にこれでもかと飛び込んできた。
リサーナは、ヒビキの言葉のすべてを一言も聞き逃したくないと言わんばかりに、全身で熱い興味を示している。その瑞々しい唇からは、今にもあどけない、けれど妖艶さを孕んだ吐息がこぼれ落ちそうだった。
甘いクッキーと、指先に宿る熱
凄惨な罠の騒動から数日後。いつもは静まり返っている辺境伯家の屋敷には、どこか華やかで落ち着かない空気が微かに流れていた。
麗らかな昼下がり、いつものように周囲の目を盗み、日当たりの良い静かなテラスで心地よい風に吹かれながらサボろうとしていたヒビキ。その前に、ふわりと軽やかな衣擦れの音をさせて、リサーナが恥ずかしそうに持っていたバスケットをテーブルに置いた。
「あ、あのね……ヒビキ。これ、自分で焼いてみたの。その……別に、あんたのために作ったわけじゃないんだからね!? それに……初めて作ったの!」
淡い金髪を柔らかな風になびかせ、仕立て直されたお気に入りの水色のドレスの裾を揺らしていたのは、伯爵令嬢リサーナだった。
彼女は白く滑らかな頬を林檎のように真っ赤に染め上げ、指先を小さく震わせながら、小さなバスケットをヒビキの目の前へ差し出している。
あの不快なザックの魔手から救い出されて以降、彼女の中にあった刺々しい「ツン」の壁は完全に消え失せていた。今や彼女は、ヒビキの一挙手一投足に胸をときめかせ、彼の姿を目で追うだけで心拍数を限界まで跳ね上がらせてしまうほど、重度のデレ状態に陥っていた。




