9話 神隠し
小学三年生の時。
私は、子ども会の日帰りキャンプで、堂々公園へ来ていた。
「マキちゃん、フリスビーで遊ぼう」
みんなでお昼ご飯を食べた後、ユノから遊びに誘われる。
「お兄ちゃんも行こうよ!」
「今はたいぎいから、後で」
ユノの兄は、流しそうめんにテンションがあがってしまい、食べ過ぎて動けなくなっていた。
「仕方ないね」
私たちは二人だけで遊ぶことにした。
みんなが、ドッジボールや縄跳びをして遊んでいるのを避けて、公園の端の山手の方まで行く。
ユノの投げるフリスビーは遠くまで飛ぶ。私は「手加減してよ」と笑いながら、森の手前まで取りに行く。
『おいで……』
森の中から呼ばれた気がする。
気のせいかな……。私は不思議に思いつつも、ユノにフリスビーを投げ返した。
『豊田麻姫さん。おいで』
間違いなく呼ばれた。私の名前だ。
私は森の奥、山の上の方を見つめる。
『こっちへ、おいで』
とっても大切な用事があるから、呼ばれているんだ。なぜか私はそう思った。
行かなくちゃいけない。
私は、森に向かって走り出した。
「マキちゃん、どうしたん?」
突然走り出した私の背中に、ユノが困惑の声をかける。
「呼ばれてるの」
「誰に?」
「私、行かなくちゃ」
私はそう叫ぶと、ユノを振り返ることもせず、真っ直ぐに森へと入って行った。
「待ってよ、マキちゃん!」
ユノはフリスビーを持ったまま、私を追いかけてくる。でも、怖くて森の中までは入れない。
「マキちゃーん」
遠くで、ユノが呼んでいる。
それに構わずに私はどんどん進む。道なんてない。下草を踏み分けて、木々の間を登っていく。
『おいで』
きっと、山の上から呼んでいる声の方が大事なんだ。
私は、それを疑いすらしなかった。
ガシッ
突然、誰かが私の手を掴んだ。
「何っ?」
大きくて、とても熱い手。私の手を荒々しく掴む。お父さんよりも大きい、体育の先生よりも大きい。そして青黒い。
その手が、私の手を引いて、どんどん進んでいく。ギュッと掴まれて少し痛い。
手から腕、肩へと見上げていく。
その先には、恐ろしい顔の鬼。
「きゃーっ!」
私は怖かった。それまで生きてきた中で一番怖かった。
大人になった今でも、この恐怖よりも強いショックは受けたことがない。
「うるさい。泣くな、喚くな」
低く、唸るような声。落ち着いてはいるが、殺気の籠もった口調。
私は何とか涙を堪える。だって、泣いていたら殺されるかもしれない。
「……どこ行くの?」
私が聞いても鬼は答えてくれない。
私は、どこをどう歩いているのか分からなかった。曲がりくねっているようで、ぐるぐると回っているようで。
ただ、風に乗っているかのような速さだった。
一体、ここは何だろう。辺りを見回しても、山のようで山ではない。森のようで森でもない。
とにかく嫌な感じ。気持ちの悪い感覚が、ずっと私にまとわりつく。
きっと、ここは人間の世界じゃない。
ユノの声も聞こえない。
友達も居ないこんな所で、手を離されたら、私は一人ぼっちになってしまう。
怖くて「離して」と言えない。
一時間ほど歩いただろうか。それなのに、とても遠くへ来てしまった気がする。
「その子を連れて、どこへ行く?」
もう一本の大きな手が伸びてきた。その声は太く、力強い声。
「見つかってしまったか」
私を引いていた手が止まる。
今度は赤ら顔の鬼が現れた。
まさか、鬼が二人もいるなんて。
私、この鬼たちに食べられて死んじゃうんだわ。
「霊力が高い人間の一人や二人、よくあることだ。構わないだろう」
私の手を掴んでいる鬼が、当たり前のように言う。
もう一人の鬼の顔が恐ろしい怒りの形相になる。
「その子はダメだ」
「なぜ?」
「分かっているだろうが!」
「お前の番か……ならば仕方ないか」
青黒い手が、私の手を離した。
まだ握られていたところがジンジンする。
「次は、もう少しうまくやらねばな」
ほとんど聞こえない声でそう呟くと、青い鬼は消えるように去っていった。
赤い鬼が立って、私を見下ろしている。さっきまでの一番怖い顔じゃないけれど、それでも、鬼の顔は怖い。
私はガタガタと震えだした。
「大丈夫か?」
さっきまでの声とは違う迫力のない声。思ったより優しい声。
「元の世界に返してやる」
赤い腕が私の目の前に差し出される。
「ほ、ほんと……に?」
私はドキドキしてうまく喋れない。
もしかしたら、どこかに連れて行かれて食べられてしまうかもしれない。
「ああ」
「嘘…じゃない?」
「鬼は嘘を吐かない。大丈夫だ」
鬼の山吹色の瞳は真っ直ぐだった。
この言葉は嘘じゃないと直感した。
どうせ、私一人で逃げても、ここからどうやって帰ったら良いかも分からない。
もう、この手にすがるしかない。私は大きな手をぎゅっと掴んだ。
その鬼の手は、私の手を優しく握り返してくれた。
痛くない。そして温かい。
さっきの青い鬼の手とは大違いだ。
「さあ、帰ろう」
私は、この言葉に少しほっとした。
鬼の大きな手に引かれて、また歩き始めた。
来た道を戻っているのかどうかは分からない。道が道でない。不思議な世界。
私は、不安を紛らわせるために、いろいろと話しかける。
「あなたは、鬼なのに怖くないね」
「そうか?」
「ここは……鬼の世界なの?」
「妖怪の世界だ。お前たちの世界と隣あっている。山や川の形も、お前たちの世界と同じだろう?」
周りをゆっくりと見渡すと、確かに見たことのある風景のような気がしてきた。
「ホントだ、これが高屋川ね。あっちは黄葉山?」
「そうだ」
知っている場所と同じだと思うと、何となく怖くなくなってきた。
山へと上がる坂道も、子ども会のみんなと歩いた道と同じ曲がり方。
鬼に連れてもらって、お散歩しているような気分になってきた。
足元に落ちていたイガ栗を蹴飛ばしてみる。転がるトゲトゲを見て、鬼の頭を見上げた。
「あなた、頭が栗みたいね?」
「栗?」
「うん、イガグリみたい」
「そうか?」
赤い鬼が笑った。
もう、全然怖くない。私も思いっ切り笑った。
間もなく、大きな岩の下まで戻ってきた。この岩は知っている。御領山にある、八丈岩だ。
「安心しろ。ここで待っていれば、もうすぐ大人が迎えに来てくれる」
「イガグリがいるから、もう怖くないよ」
私の笑顔を見て、赤い鬼は目尻を下げる。
山の下の方から私の名を呼ぶ声が聞こえてきた。
「私を呼んでる!」
私は鬼の目を見て、お礼を言う。
「イガグリ、楽しかった。ありがとう」
「ああ。だが、ここであったことは忘れてしまった方がいい」
「え?」
鬼は、私の額に手を置いた。
私の意識が薄れていく。
***
私は、御領によって、記憶と霊力を封じられていた。
今、完全に思い出した。子どもの頃、私は二人の鬼に手を引かれた。
私を連れ去ろうとした大きな手は、権現の青い手。
そして、この世界に引き戻してくれた大きくて優しい手が、御領の手だ。
「今、私の手を掴んでいるのは……、私を攫った鬼の手だ!」
私は、自分の腕を捻って、権現の手を振りほどいた。
そして、権現を睨みつける。
「どうして人間に、こんな力が出せる?」
権現は、しっかりと掴んでいたはずの手を外されて驚く。
「あなたを許さない!」
私は怒っていた。
攫ったこと、騙したこと、ユノを利用したこと、他にも他にもいっぱい。
体の中からエネルギーが溢れてくる。私の周りにモヤが漂い始めた。
「なぜ僕を拒絶する。何が起きている?」
自分の想定外の事が起きた権現は、戸惑っていた。
目の前の人間から感じる強大な力に気圧される。
恐れ、怖れ、畏れ。
初めて抱く感情に、権現の表情が崩れる。
「全部思い出したの。私が神隠しにあったのは、あなたのせいだったのね!」
「そうか……、記憶とともに、霊力の封印も解けたんですか」
一転して、権現は笑い出した。
「素晴らしい。これが番となる運命の人間が持つ霊力。想像以上じゃないですか」
権現は、もう一度私の手を掴み、体を引き寄せる。
そして、私の周りのモヤを吸い込む。
「やはり……霊力が戻るぞ」
権現が私のモヤを吸い込むたびに、体が大きくなっていく。御領よりも筋骨隆々で、さらに一回り大きくなっていた。
「千年前に戻ったようだ……。ははは。お前なんかに後れを取る前の全盛期の体だ。なあ、御領!」
権現の口調が荒々しくなる。本来の力を取り戻し、鬼気迫る表情になった。
彼は、私の顔を掴む。
「んっ」
「僕の番になれ! 僕に力を与え続けろ。いつまでも側に置いておいてやる」
それは、無理やりにでも私を伴侶にしようとする強欲な言葉。私を霊力の供給源としか見ていない台詞だった。
「この霊力が僕の物になれば、御領にも負けない」
権現の本心が見えた気がする。今までの優しい言葉は、全て虚構だったんだ。
「いやっ!」
私の体から、さらにモヤが溢れ出し、私の体に纏わりつく。そして私のモヤが、権現の手を弾き、押し返す。
「なんて力だ。これでは取り込むことができん」
権現は、最盛期の鬼の力ですら退けるほどの霊力に舌を巻く。
私は階段を駆け下りて、御領の側に滑り込んだ。
「イガグリくん、立てる?」
「あ、ああ。マキは大丈夫なのか?」
こんな時まで私の心配して。
今、この場で一番しんどいのは、あなたなのに。
「さっきの権現みたいなこと、できる?」
権現がやったみたいに、霊力を回復すれば、御領の力も戻るかもしれない。
「させない」
権現が飛び上がり、殴りかかってきた。
「危ない!」
御領が私ごと押し込むように、権現の攻撃を間一髪で避ける。
権現の殴った場所は石畳が割れ、地面が抉れていた。
「もう一発」
追い打ちをかけようとする権現に向かって、私は無我夢中でモヤを掴んで投げつける。
モヤは掴めなかったが、流れるように動いて、権現の拳を跳ね飛ばす。
あれ?
なんだか、私の思ったとおりにモヤが動いてくれる。
そのまま、モヤで権現を押し込んでいく。
「マキ、霊力を操れるのか?」
「よく分かんない」
権現がモヤと格闘している間に、私は御領を支えて立ち上がる。
「イガグリくん、受け取って」
私の周りを漂うモヤを、御領に注ぎ込む。
「力が……戻ってくる」
御領の傷が塞がり、肉体は硬く、逞しくなっていく。私は持てる全部の力を御領に託す。
「お前の番を渡せ、御領」
モヤを蹴散らした権現が叫ぶ。御領も負けてはいない。
「マキは誰のものでもない!」
二人の鬼は咆哮し、睨み合う。
私は、ゆっくりと後退った。
お互いに走り出し、真ん中で激突した。
間合いなんて関係ない。ただただ殴り合う。
赤い腕と青い腕が何度も交差し、鈍い音が響き渡る。
そんな様子を見ているのが、痛々しかった。
でも、私はこの戦いを見届けなければならない。
権現の拳が頭に当たる。そのまま御領の角をへし折った。
御領は堪らず膝をつく。
「終わりだ」
権現は指を組んでハンマーのように両手を振り下ろした。
「イガグリくん、負けないで!」
私の絶叫が、御領に届く。
「おう」
御領は拳を突き上げる。
権現の振り下ろす腕の勢いに負けないように、脚に力を入れ、体全体を使ってぶち上げる。
その拳が権現のあごをかち割った。
権現は背中から倒れた。
手足は痙攣し、目は虚ろ。
「まだ……やれる」
権現は小さな声で呟く。
御領がその側に立ち、彼を見下ろす。
「お前は負けたんだ、権現」
「認めない……」
権現は震える手を私に向ける。
「あの女の霊力があれば、僕はまだ戦える。僕を特別扱いしろ!」
権現の指先から放たれた強力な呪い。権現の刷り込みの呪いだ。
突然過ぎて、御領も対応ができなかった。
夜なのに、さらに黒く見える漆黒のモヤが、私に向かって飛んでくる。
あの呪いにかかれば、私の思いは歪んでしまう。御領への想いよりも、権現を大切に思ってしまう。
逃げる間もない。自分のモヤで守ろうにも、全部渡してしまった。
漆黒の呪いが、私の胸に突き刺さる。
「くっ」
「マキ!」
次の瞬間。呪いは霧のように消え去った。
「え……」
私は胸を抑える。胸ポケットにはハンカチが入っていた。
ハンカチの中には、御領の髪の毛が一本。先生やユノの呪いを祓った御領の髪の毛だ。
これが、権現の呪いを打ち破ったんだ。
権現は最後の霊力を使い切り、もう動けなかった。
あんなに大きかった体も、人間の姿と変わらないくらいに細くなっていた。
私はホッとして、天を仰ぐ。
「マキ! 無事で良かった」
御領が駆け寄り、私をハグする。
鬼にギュッと抱きしめられて、嬉しさと苦しさが同時にやってくる。
「ちょっと痛いよ」
「ああ、いや、すまん」
御領は、恥ずかしそうに私から離れると、「あいつを見てこないと」と誤魔化しながら、倒れている権現のもとに向かう。
「もう何もできまい」
「そう……だな」
権現は力なく答えた。
「どうして、マキを奪おうとした」
御領が詰問する。
「もう、いらない」
権現は首を振る。
私は、御領の後ろに隠れるようにして、二人のやりとりを覗き込む。
「お前がどうしたいかなんて知らん。なぜマキを狙ったのかを聞いている」
「……」
権現は答えない。
私も知りたいことがある。
「私を騙して、あなたの番にしようとしたんでしょ」
「……」
権現はやはり答えない。
私は考える。今まで、権現はどんなことを話してきたかを。
……そうだ、昔話。
ゴンとハチの物語。
大昔、権現山の鬼は御領山の鬼との喧嘩に負けた。そして、周りの妖怪たちに掌返しをされて、一人ぼっちになったんだ。
だから……御領を許せなかったに違いない。
御領の番である私を奪って、自分の番にすることで、やり返そうとしたんじゃないかしら?
そのために、先生やユノに呪いを掛けて、私を騙そうとした。
辻褄が合っている……気がする。
「復讐のためなの?」
私が聞く。
それでも答えない権現に、御領が怒りを顕にする。
「俺に負けた腹いせに、マキを番にして、優位に立とうとしたんだろう。関係ない人間を巻き込みやがって!」
権現は静かに口を開いた。
「御領……お前は、また僕を不幸にした」
肯定とも否定とも取れる答え。
「また? 前は、山の高さを競った結果だった。今回はお前から仕掛けてきたんだろうが」
御領は、権現の言う「不幸」を「御領に負けたこと」だと思っている。
でも、何か違うような。
「そんなに俺に負けたのが悔しいか」
御領がさらに追及する。
負けたのが悔しいのなら、番を奪うなんて回りくどいことをしなくても良いはず。御領を騙して倒せば良いんだから。
権現が今までやってきたことからすると、御領を騙すことなんて簡単だろう。でも彼は、そうしなかった。
権現には、まだ別の思いがある。
「イガグリくん。きっと違うわ」
私は考える。
権現は、紙芝居とは違う結末を語っていた。紙芝居では、ゴンとハチは仲直りして、御領山に砂留を作った。
でも、彼の物語では、権現山の鬼は一人になってしまった。
そして、私と一緒になり、幸せに暮らすことを夢見ていた。
「……権現さん。あなたは、ずっと孤独が寂しかったんじゃない?」
「何を……言っている……?」
権現は、私に困惑した目線を投げかける。
とぼけているんじゃない。本当に分からないんだ。
彼は、自分の気持ちが分かっていない。
「私も学校の友達を失ったから分かるの。仲間を失うこと、一人でいること。とても辛かったわ」
「うるさい……」
権現は不機嫌を顕にする。
自覚すらしていなかった気持ちを、私が代弁することに、戸惑いを見せる。
御領も思い出したように呟く。
「七ツ池の大蛇があいつのことを『前に敗北してからずっと、孤独だった』と言っていた。俺はそれを知っていたつもりだったが、あいつをそこまで追い詰めていたとは……」
権現が唸る。
「どうしてみんな、お前の方へ行く。どうしてお前ばかりが認められる。どうして……」
権現の言葉を聞いて、私は確信した。彼は、誰かに自分の価値を認めて欲しかったんだ。
それでも、御領はまだ怒っている。
「俺を憎むのは構わん。だが、マキに手を出したのは許さない」
「権現さんは、イガグリくんが憎かったんじゃないわ」
私は、彼を可哀そうだと感じた。
「彼は、自分を認めてくれる誰かが……、自分の側にいてくれる誰かが欲しかっただけなんだよ」
「どういうことだ? あいつを負かした俺を恨んでいるんじゃないのか」
御領はよく分かっていない。でも、それで良い。私は、御領のそんな真っ直ぐな考え方が好きなんだ。
「違う……。僕は奪われたんだ。今度は、僕がお前から奪うはずだった」
権現は囁くような声しか出なくなっていた。
奪われたというのは、御領に負けたせいで、仲間が彼から離れていったこと。
だから今度は、御領の番である私を奪おうとした。でも、それは奪おうとしたんじゃない。
「私と一緒に居たかっただけなんだよね」
権現は何も言わない。でも、その瞳は潤んでいるように見えた。
普通の人では、鬼と一緒にはなれない。
でも、鬼の番になる運命を持つ私なら、霊力の高い私なら、一緒になることができる。
彼は、子どもの私を狙った。
きっと、食べるためじゃない。私を、一緒に居てくれる家族にしようとしたんだ。
私はしゃがみ込み、彼の頬に手を当てる。
「どうして、最初から私を呪わなかったの? 思いを捻じ曲げれば、簡単だったのに」
「呪いで得た番なんて、本当の番じゃない」
喉の奥から絞り出すような声。
もちろん、嘘偽りない、彼の本心。
「最後の呪いは何だったんだ? あれは、刷り込みの呪いだろう」
御領も、権現の顔を覗き込む。
「……うるさい」
「すぐそこまで手に入りかけていた番を失うことが、そんなに怖かったのか?」
「黙れ!」
御領が図星を突いた。
彼の信念は、これ以上の孤独には耐えられなかったんだ。
「むぐっ」
私は、御領の口を抑えて、もう彼を刺激させないようにする。
「権現さん。あなたの贔屓の呪いは、誰かを大切にさせる呪い。誰かを愛する力だわ」
権現は静かに私の顔を見つめる。
いつか、堂々公園に行った時に感じた視線。それと同じ。
「愛する呪い。誰かに愛されたいという、あなたの願い」
「そうか……僕は……」
権現の山吹色の瞳は、ゆっくりと瞼の向こうに消えていく。
「……僕は寂しかったのか」
「そうよ。寂しがり屋さん」
「ああ、キミが本当に僕の番だったら……」
消えるような声。
それは、心の底にある本心だったのかもしれない。
権現の体は、闇に溶けるように消えていった。
私たちは、その跡をしばらく見つめていた。
「死んじゃったの?」
「いいや。力を失って、妖怪の世界に戻ったんだ。あいつは、ここを離れて、きっとどこか別の土地で暮らすだろう」
「良かった」
私はホッとした。
権現が死んでいなかったこと。そして、御領が殺さなかったことに。
「マキのその優しさが、あいつの心を助けたんだろうな」
御領が何か呟いた。
「ん、何?」
「いいや、何でもない。」
御領が私を見る。
……少し、微笑んでいるような顔。
鬼なのに、可愛い顔してるじゃない。
「お兄ちゃんも来るの!」
「何で俺まで!?」
「当たり前じゃろ、マキに謝りんさい!」
その時、駐車場の方から、騒がしい声が聞こえてきた。
「マキー! いるー?」
鳥居の下で、ユノが叫ぶ声。
私は、自分の名前を呼んでくれるその声が嬉しくて、すぐに駆け出した。
「いる! いるよ!」
砂利に足を取られながら、残っている力で精一杯走った。
「ユノ!」
「マキ! 無事で良かった」
私たちはしっかりと抱き合う。
「どうしてここへ?」
「私の病室に、可愛いネコちゃんが来てね。マキが危ないって、ここまで連れてきてくれたの」
「ネコちゃん?」
御領の前にスネコスリが現れ、ペコリと頭を下げた。
ネコ……かぁ? 可愛い……?
「あれは、絶対に妖怪じゃって」
後ろから、ユノのお兄さんが声をかける。どことなく、気まずそうに立っていた。
「私は妖怪なんか信じとらん。けど、マキのことは信じてる」
「ユノ……」
ユノは、お兄さんの服を掴んで、私の前に引っ張り出す。
「お兄ちゃん、謝って」
「分かったよ…」
「嘘吐いてごめんな、マキちゃん」
「嘘……?」
何のこと?
「ユノが『マキちゃんに会いたくない』って言ったの、あれ、嘘だったん……」
「私がそんなこと言うはずないでしょ!」
「噂とかあって、ユノのことが心配に……」
「そんな噂を信じる方がおかしいんよ!」
お兄さんの謝罪を途中で遮るほどに、ユノはお怒りモードだ。
「でも、あの時、『豊田さん』って……よそよそしかった」
私がそう言うと、ユノは「しまった」という顔をした。
「ごめーん。あの時、寝惚けてて、誰か分からんかったんよ」
「はぁ?」
「マキって、豊田って名字じゃったっけ!?」
「そこ忘れる!?」
私は思いっきりツッコんで、そして笑った。
ユノも「ごめんね」と言いながら、笑う。
二人とも、笑いながら少し泣いていた。
「でも、あの時、贔屓の呪いを解いたのに……」
「私にも先生たちと同じ呪いが、かかってたん?」
「うん、ずっと……」
「そう……。でも、私とマキが一緒に過ごした時間は、本物でしょ」
ユノらしいな。
「そうだね」
私はもう一度ユノを抱きしめた。
「うちのお兄ちゃんのこと許してね」
「もちろんだよ」
「帰ろう、マキ」
ユノがお兄さんの車を指差す。
私は少し考えた。
「ごめんね、ユノ。私は帰らないわ」
振り返ると、御領が立っていた。
「お、鬼じゃ!」
お兄さんが驚いてへたり込む。ユノは身構える。
「あのでかい人が、マキを危ない目に遭わせたの?」
「違うよ。あれは御領くんだよ」
「へ? 御領……さん?」
ユノの目が点になる。
「ああ。俺は御領だ。御領山の鬼だ」
「ホントだ! 御領さんの声じゃん! 御領さんって、鬼なの? 嘘ぉ!」
「嘘じゃない」
御領が私の肩に手を置く。
「ユノ、ヤバい。逃げよう」
お兄さんが震える手で、ユノの腕を引く。
本当に妹思いなお兄さんだ。どんな時でもユノを守ろうと必死。
他人から見ると、御領と私もこんな風に見えているのかな。自分を守ってくれる人がいるってのは、幸せなことだ。
「そう言えば、顔立ちにも御領さんの雰囲気が残ってるわ。……鬼の御領さんも、素敵かもしれん」
ユノは、御領の膨れ上がった筋肉に見惚れる。
ホント、ユノはユノだな。
でも。
「ユノ、ごめんね」
私は頭を下げ、もう一回謝る。
「ごめん!」
ユノは、私の気持ちを察して、笑ってくれた。
「やっぱりか。そうじゃないかなとは思ってたんよ。後で、一から報告してよ」
「すごく長くなるし、すごぉくファンタジーだけど、大丈夫?」
「マキの言うことは全部信じるよ。だって、鬼を見てるんだし」
ユノは私の頭を抱えるようにして、撫でてくれた。
「じゃあ、お兄ちゃん。帰るよ」
「でも、ここにマキちゃんを置いていくわけにはいかん。鬼がおるんじゃし……」
「か・え・る・よ!」
ユノはお兄さんを引っ張るように連れていき、車で帰って行った。
「ふう。疲れた」
私は座り込んだ。今日は、色んなことが一気に起こりすぎた。
「マキは、帰らなくて良かったのか?」
沈む月夜に映える、御領の横顔。
もう鬼を怖いとは微塵も感じなかった。
私は深く深呼吸をする。
「あなたが飛び込んで来てくれた時、心のどこかで、嬉しいと思ったんだ」
「俺は、マキを守りたかっただけだ」
御領はさらりと答える。いつもどおりだ。
「そうだね。イガグリくんは変わらないね」
静かな秋の夜。
お互いの顔を、無言で見つめ合った。
私は気力を振り絞って、立ち上がる。
「ねえ。イガグリくん来て」
私は御領の手を引いて、もう一度本殿への階段を登る。
暗い階段を、今度は自分だけの力で、一段一段、一歩ずつ。
子どもの頃に自分の手を引いてくれた大きな手を、逆に引っ張っていることが面白かった。思わず笑いがこぼれる。
「ふふっ」
「どうした?」
「記憶が戻って良かったなって」
御領に手を引かれた思い出があるから、こうして、手を引いている今が楽しいんだ。
「怖くはないか?」
「私は、もう大人だよ。良い思い出だよ」
さすがに、疲れた身体に百段は辛い。足元がよろけると、御領が受け止めてくれた。
御領も激しい戦いで疲れているはずなのに、私をしっかりと支えてくれる。
「無理するな」
「ありがとう」
ペースを落とし、ゆっくりと階段を上っていき、なんとか本殿の前までやってきた。
さっきまでの戦いの跡がまだ残っている。
「どうしてここに?」
御領が辺りを見回している。街灯の明かりも届かない高台で、月も沈んでしまうと、ここは真っ暗だ。
わざわざこんな所へ上がってきた理由が分からないのだろう。
「あなたが飛び込んできた時、私と権現さんが何をしようとしていたか分かる?」
「あの時は夢中で……いや、知っている。まさか……」
御領が答えにたどり着く前に、正解発表。
「イガグリくん。私と鬼の番の誓いを立てる方法を教えて」
御領は慌てる。
「ダメだダメだ。鬼の番になってしまえば、マキは人間ではいられなくなるんだぞ」
私は頷いた。
「それでもいいよ」
「ダメだ。マキが妖怪の世界の住人になってしまう。そうなると、こちらの世界との時間もずれていってしまう。マキは番の運命なんて気にしなくて良い。友達や仲間と同じ時間を過ごすんだ。マキは自分の好きなように生きれば良い!」
いつもより、御領の口数が多い。私のことを思って、一生懸命になってくれてるんだってよく分かる。
「イガグリくんが、そんな風に考えてくれているのが嬉しいの。あなたは、私が番にならなくても良いと思っているのに、ずっと守ってくれた」
「ああ」
「番だから守ってくれてるんじゃないって分かったから、私だから守ってくれてるんだって分かったから、嬉しくて堪らないの」
御領は少し頷いた。
「私は、あなたと一緒にいたい。あなたと同じ時間を過ごしたい」
「しかし……」
「運命だからじゃない! ……私はイガグリくんが好きだから、一緒になりたいの」
私は御領の顔を見上げる。
暗闇だけど、真っ赤な顔がさらに真っ赤になっているのが分かる。
「イガグリくん。私じゃ嫌?」
答えが返ってくるのに、少し時間がかかった。
「……嫌なものか。大好きだ」
ぶっきらぼうな言い方。でも、御領らしい真っ直ぐな答え。
「初めてマキに会った時、その笑顔に癒やされた」
御領は、言葉を選んで、ぽつりぽつりと断片的に喋る。
「この笑顔を守りたいと思った」
子どもの頃に八丈岩で、御領と笑い合った思い出と重なる。
「そのためには、俺を忘れることが一番だと思っていた」
私は静かに聞いていた。
「マキと再び出会って」
御領が姿を消しているのに、私が見つけてしまったから、とても驚いていたっけ。
「あの時みたいにイガグリと呼ばれたとき、懐かしくて嬉しかった」
そうだったんだ。
私は全然覚えてなかったのに。どこか頭の隅に残っていたのかな。
「饅頭を一緒に食べたこと」
「マキが俺の服を選んでくれたこと」
「絵を描いているマキを見たこと」
御領は一呼吸おく。
「全部楽しかった」
もちろん私も楽しかったよ。
私が笑うと、御領も笑顔になった。
「マキとなら、番として生きるのも悪くない。そう思った」
御領が私の肩を抱く。
その大きな手に、私は手を添える。
「イガグリくん。これからも、私と一緒にいて」
御領は跪き、私と目線を合わせる。
「分かった」




