8話 鬼と鬼
俺は、八丈岩の上に一人座っていた。
この岩には鬼の足跡が残っている。そこが俺の特等席だ。
頬杖をつき、先ほどの出来事について考え込む。
マキが、また人間たちの厄介事に巻き込まれているようだったので、俺は直接調べようとしただけだ。
それなのに。
『もう放っておいて!』
マキは怒って走って行ってしまった。
あの後、俺は仕方なく御領山まで帰ってきた。
なぜ、彼女は怒ったのか。
頭を捻ってみるが、一向に分からない。人間の機微というのは、とかく難しい。
また明日にでもマキに教えてもらおう。
俺は、沈んでいく夕陽を眺めながら、ため息を吐いた。
日が山の陰に隠れ、空が青から紺へと染まり始める。
「ん?」
近づいてくる霊力を感じ、立ち上がる。
この霊力は知っている。
「何をしに来た」
「話を聞いてくれ、御領山の鬼よ」
その妖怪は、岩の下に平伏していた。
「スネコスリ! この町にもう近寄らないと誓っただろう」
「それは分かっている。だが、どうしても話さねばならん」
鬼との誓いを破ることは、殺されても構わぬということ。
命を掛けてまで、俺に話したいことがあるというのなら、聞かないわけにはいかない。
「なんだ」
「権現山の鬼のことだ」
「あいつか……」
七ツ池の大蛇が言っていた。あいつは、大蛇にこの御領山をやると勝手な約束をしたのだ。
何かを企んでいるには違いないが、その目的が分からない。
「彼は、あの女を狙っている」
それは知っている。だから俺はマキを守っていた。
だが、あいつがマキを狙う意味が分からない。彼女は、俺の番だ。あいつには何の関係もないはず。
「そんなことを言うために誓いを破ったのか?」
「そうだ。彼は、あの女を自分の番にしようとしている」
「なんだと!?」
俺は思わず身を乗り出す。
命を狙うというなら、俺が守れば良い。だが、あの日以降、あいつが直接マキに手を出すことはなかったから、今まで大目に見てきた。
しかし、番を奪うとなると話は変わってくる。
「詳しく話す」
「よし、ここまで来い」
指示に従い、スネコスリは岩を登って俺の足元へ伏せる。
蹴り上げれば、いつでも殺せる位置。それでもスネコスリが上がってきたということは、それだけの覚悟があるのだ。
「あの女の友達に、転ぶ呪いを掛けるように俺に命じたのは、彼だ」
「そうだろうな」
それは、薄々気が付いていた。
だが、なぜ呪ったのがマキではなく、ユノだったのか。
「あの女の周囲の者に災いを振り撒くように命じられた。できるだけ親密な人間を……」
「なぜだ?」
「彼女の仲間に『あの女が厄災の元凶だ』と思わせる魂胆だった」
「なにっ」
「厄災の元凶は仲間から弾かれる。だから、あの女は人間たちの中で孤立することになった」
確かに。今日マキの噂をしていた人間は、彼女は怖がられていると話していた。
それでマキは困った顔をしていたのか。
……俺は、マキ本人に害がなければ良いと考えていた。
それこそがあいつの思う壺だったんだ。
俺が手を出さない間に、あいつはマキの居場所を壊そうとしていた。
「孤独になれば、人を頼りたくなる。そこに彼はつけ込もうとしている」
「何だと……」
怒りがふつふつと湧いてくる。
マキを追い詰めて奪おうとしている権現に対しての怒り。そして、そんな事に気付かなかった自分に対しての怒りだ。
空が群青から黒へと変わっていく。夜が訪れた。
俺の体から怒りの蒸気が湧き出す。メキメキと音を立てて、筋肉が膨れ上がり朱に染まる。
爪が、牙が、そして角が鋭さを増し、山吹色の瞳が輝く。俺は鬼の姿に戻った。
「知っていることを全て話せ」
スネコスリに凄む。
鬼の覇気に気圧されれば、並の妖怪はこれだけで気を失うこともある。しかし、スネコスリは怯まなかった。
スネコスリは以前、喋れば殺されるよりも酷い目に遭わされると言っていた。
それでもスネコスリは、あいつに命じられたことを、自分の知っていることを、全て俺に打ち明けた。
あいつの考えていたことの片鱗を聞いただけで、俺は戦慄した。
秋の夜は早く更ける。
長い話の最後に、スネコスリはこう言った。
「今宵、彼はあの女と鬼の番の誓いを立てる」
となれば、神社に向かうはず。俺はマキの霊力を探す。
俺は目を閉じて感覚を研ぎ澄ませる。マキの霊力なら、どこにいても見つけてやる。
……いた。マキの霊力を捉えた。
「豊姫神社か」
俺は岩から飛び出せるように体勢を整える。
が、その前に確認しておきたいことがあった。
「お前は、どうしてこのことを俺に教えた? なぜ俺を助けてくれるんだ?」
「いいや、あの女のためだ。恩がある」
そうか。俺がトドメを刺そうとした時、マキがスネコスリの命乞いをした。スネコスリにとって、マキは命の恩人。
「マキのために命を懸けるのか」
「あの女に救われた命。あの女のために使っても惜しくはない」
スネコスリは目を閉じる。
誓いを破った罰を命で払おうとしている。
「いや、いい。お陰でマキを救える。お前には恩ができた」
俺がそう言うと、スネコスリは驚いたように目を見開く。鬼がそんな情けを掛けるとは思わなかったようだ。
スネコスリは頭を深々と下げると、踵を返して山を降りていった。
マキの優しさは、結局マキを助けることになる。
それが身をもって分かった。
マキがこだわっていた「子どもを守る」ってことも、結局は自分を助けることになるのかもしれん。
もっとマキの話を聞きたい。彼女の考え方を理解したい。
「待ってろ、マキ」
俺は岩から飛び出すと、山を駆け下り、力の限り走った。
間もなく豊姫神社へ辿り着いた。
鳥居をくぐり、辺りを見回す。
上の方、山の中腹にマキの霊力を感じる。そのすぐ側に、弱い……いや、強さを隠した霊力が一つ。
俺はマキのいる場所へと飛び上がる。
「マキー!」
本殿の前にマキと、その側に鬼が一人。
やはり、あの霊力は権現だった。
「御領! どうして、ここへ?」
「マキを守るためだ」
俺は、権現と対峙する。
***
権現がその青い腕で、私を強く引き寄せた。
御領の瞳が、怒りで金色に燃える。
「マキから手を離せ」
「野暮だよ、御領」
権現は「大丈夫。キミは僕の後ろにいて」と、私を岩壁の方に寄せる。
そして、背中越しに私に囁く。
「今、キミが困っている本当の原因は、誰だと思う?」
「何をコソコソ吹き込んでいる!」
御領が駆け込んできて、その勢いのまま、大きな手で権現の顔を叩く。
しかし、権現はその赤銅色の腕を掻い潜り、御領の頬に濃紺の拳を突き立てた。
「なぜ、お前がこんな所へ?」
「マキの居場所は霊力で探せるからな」
御領が腕を振り戻す。その腕に押されて権現は距離を取る。
「違うよ、御領。彼女の身体に危険は迫っていないのに、なぜお前は現れたのかと聞いたんだ」
御領は何も言わない。権現を睨むだけ。
権現はニヤリと笑った。
「答えられない理由があるんだね」
「権現、逆に問おう。なぜお前はここにいる?」
御領は問いかけながら、殴りかかった。大蛇の時よりも荒々しい動き。どこか焦っているみたいに見える。
その拳を受け流し、権現は答える。
「そう焦るなよ御領。ここへ来たのは、悲しんでいる彼女を慰めるためだ」
そう、権現の言うとおり。私は、誰にも邪魔されずに考えられる、静かな場所に連れてきてもらっただけ。
権現は呼吸を整えて反撃に転じる。
「彼女を慰めるなんて考えたこともないだろう。お前に彼女を救ってやることはできない」
権現は機敏に間合いを変えながら、絶え間なく攻撃を続ける。権現の勢いに、御領は防戦一方となってしまう。
鬼同士の戦いの迫力に気圧され、私はただ、それを見守ることしかできなかった。
どうして二人は戦っているのだろう。
突然現れた御領が、一方的に権現を襲っているようにしか見えない。
どうして?
もしかして、権現からプロポーズをされたことに、嫉妬した?
御領が、そんな風に私の事を想ってくれているなら……
でも、御領がそのことを知っているようには見えない。
彼は「マキを守るためだ」と叫んだ。
私を守る。彼はいつもそう言っていた。
そう言えば、なぜ彼は私を守ろうとするのだろう。それもまだ教えてくれていない。
御領の張り手が権現の腹に当たり、権現が大きく吹き飛ぶ。彼は後ろに跳んで衝撃を受け流したものの、かなりの痛手だったのか、一歩よろめく。
しかし、すぐに体勢を整え、私と御領の間に戻ってくる。
二人の鬼は距離を取って、間合いを探る。
「もっと下がった方がいい」
権現が目配せをする。
でも、戦いが止まった今なら聞ける。
私は一歩前に出た。
「権現さん。あなたが、ユノや先生に呪いを掛けたのね! どうして!?」
権現はこちらを振り返らずに答えた。
「御領が知っているはずです」
どうして御領が?
彼らは嘘を吐かない。だから、本当のこと。
でも、権現も自分で答えないということは、何かを隠したいと思っている?
私の頭はまた混乱してきた。
「イガグリくん、知ってるの?」
御領は一瞬私を見る。すぐに口を真一文字に結んで、権現を睨みつける。
なぜ、答えてくれないの?
私に何を隠しているの?
まさか。
私の中で疑念が渦巻く。
権現の言った「キミが困っている本当の原因は誰か」という忠告が頭を巡る。
本当の原因。
それが御領かもしれない。
そんなはずはない。
だって、イガグリくんだよ。
私の買ってきたお饅頭を食べて美味しいと言った。
私の選んだデニムを着て、顔を隠して照れていた。
私たちを守るために、大蛇と戦ってくれた。
心の中で、もう一人の私が警告する。
本当に?
…彼を信じていいの?
……だって鬼だよ。
分からない。
どれだけ考えても分からない。
私は、今まで御領に聞けなかった疑問をぶつける。
鬼に手を引かれた、あの日のことを。
「私が神隠しにあった時、イガグリくんもいたの?」
「いた……」
「何で言ってくれなかったの?」
「お前を怖がらせたくない」
そう言うと、御領は再び権現に向かって駆け出した。二人は組み合い、殴り合う。
それだけじゃ分からないよ。
私が何を怖がるっていうの?
もっといっぱい喋ってよ。
じゃないと、あなたを信じられない。
「全てはお前が原因だ、御領!」
権現が叫ぶ。
本当にそうなの?
もしかして、神隠しの原因も、私の居場所がなくなったのも?
みんな、御領くんのせい?
私は胸が苦しかった。込み上げてくる思いのせいで、うまく言葉にできない。
「ねぇ……ちゃんと……教えてよ!」
***
俺は黙っているしかなかった。
「なぜ、お前がこんな所へ?」
「イガグリくん、知ってるの?」
権現やマキの質問に正直に答えてしまうと、スネコスリから聞いたとバレてしまう。
俺は、そんなふうに話を誘導した権現を睨みつける。
スネコスリが話したことを知れば、権現は、死ぬよりも恐ろしい苦しみをスネコスリに与えるだろう。
恩のあるスネコスリを、危険に晒すわけにはいかない。
目の前に立つ権現の表情……。そのニヤけ顔が何かを企んでいるようで、いけ好かない。
もしかしたら、スネコスリのことがもうバレているのか?
そうでないことを信じるしかない。
スネコスリから伝えられた、もう一つの情報。
『刷り込みの呪いは、彼の呪いだ。呪われた者は誰かを特別扱いするようになる。誰か……それが、あの女だった』
それがマキの学校の先生に掛けられた呪い。
確かに「補い合う呪い」という高度な呪いは、権現ほどの鬼でなければ掛けられない。それに気付かなかったのは俺の失態だ。
呪い自体は力が弱すぎたから、まさかあいつの呪いだとは思わなかった。きっと、権現は、俺が見逃すだろうと見越していたに違いない。
俺が一番危惧しているのは、マキにも刷り込みの呪いを掛けているのではないかということ。
マキが、権現を特別扱いするようになれば、権現の番になることを選ぶかもしれない。
人の心を操る呪い……。
なんとかマキに触れて、呪いを受けていないか調べないと。
「お前に彼女を救ってやることはできない」
権現が俺を煽ってくる。
うるさい。
さらに権現は、俺をマキに近づかせまいと、マキを背後に隠して戦っている。
戦い方が、いやらしい。
腕力や霊力なら俺の方が圧倒的だが、あいつは俺の力をいなして、自分の攻撃に繋げている。
一朝一夕の動きではない。長年に渡って、体の動かし方、そして戦い方を研鑽してきたのだろう。
……千数百年前。
どちらの山が高いかで権現と喧嘩した。
あの頃はまだ権現の方が強かった。その強さゆえに、あいつは大きな岩を投げつけてきた。
その岩が重なって、御領山は権現山より高くなった。結局、あいつは敵に塩を送ったのだ。
山の高さで勝利した俺は力を増し、すぐに権現と逆転した。
そこから、あいつは変わってしまった。
「私が神隠しにあった時、イガグリくんもいたの?」
すまない、マキ。神隠しにあった時のことは、マキにも言えないことがある。
十年前。俺はあそこでマキに会っている。
怖がってガタガタと震えていたマキ。
手を伸ばすと、恐る恐る俺の手にすがる。やっと安心したのか、ほっとした笑顔を見せる。
その笑顔に癒されるとともに、心を痛めた。
彼女に「もうすぐ迎えがくる」と伝えると、「イガグリがいるから、もう怖くない」と言って笑う。
俺は、マキに記憶と霊力を封印する呪いを掛けた。
あの時の恐怖も、俺の番だという運命も、もう思い出さなくて良い。知らなくていい事なんだ。
「全てはお前が原因だ、御領!」
権現が怒りを俺にぶつけてくる。
俺は全身でそれを受け止める。
なぜ、あいつがマキを奪うという考えに至ったのかはまだ分からない。
だが、逆恨みも甚だしい。
俺も怒りで答えるしかない。向かってくる権現に対して、力を溜める。
「来い、権現!」
権現は体勢を低くして突っ込んでくる。
俺の間合いに入ってきた所へ、左の拳を打ち込む。
それを読んでいたあいつは、体をひねって避けた。
右。
それは予想していた。
権現は眼光鋭く、俺の脇腹を狙って爪を突き立てる。
俺は本命の右の拳を握りしめ、あいつの顔をめがけて振り下ろす。
「くっ」
お互いに苦悶の表情を浮かべる。
俺の拳は紙一重で顔への直撃を避けられたが、権現の耳を掠めて右肩を打つ。
権現の避ける動きのおかげで、その爪も俺に深くは刺さらない。
「もう、やめて!」
マキの声が聞こえる。
だが、ここで俺が止まるわけにはいかない。あいつを止めなければ、マキに何をするか分からない。
「お前は僕を不幸にした。そんなお前が、彼女を幸せにできるとは思えないな」
権現の減らず口は健在。
手数の多さで、俺の動きを封じようとしている。
「それでも、俺は。マキを、守る!」
俺は不器用だから、それしかできない。
マキを苦しめているのはお前だ、権現。だから、お前を止める。
あいつはさらに半歩踏み込み、追撃してくる。肩の痛みのために、それほど威力は強くないが、両手両足を使ってあらゆる方向から攻撃してくる。
俺は、その攻撃を全て受け止める。
その攻撃の合間を縫って反撃するが、直撃は避けられてしまう。
お互い、決定打に欠けたまま、体力と霊力を消耗していく。
権現の蹴りが空を切る。
あいつも、かなり苛ついているようだ。動きが雑になってきた。
権現の肘打ちを手のひらで受け止め、二人の動きが止まる。
互いに呼吸を整える。
「どうして、マキを狙う?」
俺が質問すると、権現はビクッと反応して、後ろに跳んで距離を取る。
今まで漂っていた余裕は、もう感じられない。
「お前の番だから、奪うんだ!」
あいつが険しい表情で叫び、霊力を高めていく。
そして、両手を高く掲げる。
「くる……」
あれは大技の構えに違いない。
俺も霊力を体に纏って、その攻撃を受け切る準備をする。
その時、目の端でマキが駆け寄ってくるのが見えた。
***
「私が……イガグリくんの番?」
番……。伴侶。結婚相手。
さっきまで、御領が何をしたいのか分からなかった。
突然現れて、いきなり権現に攻撃を仕掛けるなんて、どう考えてもおかしい。
「私を守る」とは言ったけれど、私はその理由を知らなかった。
でも、権現の言葉で全てが繋がった気がする。
私の運命は「鬼の番」じゃなくて、「御領の番」だったってこと。
だから、御領は、伴侶になる私を守ろうとしてくれてたんだ。
……それだけ?
自分と結婚する運命の番だから守ってくれてただけ?
落ちそうになった私を抱きかかえてくれたこと。一緒に茶山饅頭を食べたこと。服を買いに行ったこと。図書館で絵を描いたこと。
そして、側にいてくれたこと。
全部が「番だから」だったからなの?
私はどこか寂しかった。
それだけじゃない。
権現は、「番」を奪うと言っていた。
辛い時に優しい声で慰めてくれたことも、何度も大丈夫と私を励ましてくれたことも、私が「御領の番」だから?
自分と番の誓いを立てさせようとしていたのは、御領から私を奪うためだったんだ。
どうしてそんな事を?
私には分からない。
戦いの原因は……私?
でも。そんなの、おかしいよ。
私は思わず駆け出していた。
二人を止めなきゃ!
この戦いを止められるのは、私……いや、「御領の番」しかいない。
「これ以上、戦わないでっ」
私が叫んでも、二人は止まらない。
権現が振り上げた両手を大きく揺らし始める。
その指先から、何か大きなエネルギーを感じる。圧力で押し込まれるような感触。頑張って走っても、全然前に進まない。
黒いモヤが権現の両手から溢れる。
呪い!?
いや、呪いよりも直接的で攻撃的な圧倒的な力を持っているように見える。
これは危ない。
私の第六感が、警告を発する。
怖い、危ない、逃げろ。
だけど、足が言うことを聞かない。圧倒的な恐怖で動けない。
御領からも黒いモヤが、蒸気のように立ち昇る。
「下がれ、マキ!」
御領が私に気付いて叫ぶ。その瞬間、御領の周りを漂っていたモヤが薄くなる。
権現の左手が振り下ろされる。
衝撃波が辺りを包む。木々が折れ、石が舞い飛ぶ。
「きゃ!」
私は吹き飛ばされて、階段の手前まで転がった。
「痛たっ」
左脚を打ち付けてしまった。私は起き上がろうとするが、痛みと恐怖で、足にうまく力が入らない。
「マキっ」
御領が私の方へ駆けてくる。
その顔は傷だらけ。さっきの権現の攻撃をまともに受けてしまったのだ。
権現は悦びの笑みを浮かべる。
今、御領は彼に背を向け、無防備に私に向かって走っている。
権現が右手を振り下ろす。
「危ない!」
私が叫ぶのと同時に、再び衝撃波が広がる。
また私は吹き飛ばされた。
足がずり落ち、バランスが崩れる。
眼下には百段以上の階段が並んでいる。
どのくらいの高さだろう。学校の屋上よりも少し高いだろうか。
……落ちる。
前にも、この浮遊感を体験した。
それはスネコスリを追い掛けていた時だ。
御領が飛び込んできた。
あの時と一緒。
でも、あの時は人の姿だった。
今は鬼の姿。そして、その顔は傷だらけ。
恐ろしさよりも、可哀そうだと思ってしまう。
御領は地面を蹴り、手を伸ばす。
「マキ!」
校舎の屋上から落ちそうになった時に似た視界。
「イガグリ……」
私も手を伸ばす。
御領がその手を掴む。
「マキ!」
御領は、もう一度私の名を呼んでくれる。
しかし、前と同じようにはいかなかった。
私が御領を引っ張るかたちで、手を繋いだまま、一緒に落ちる。
「きゃっ」
御領は強い力で私を引き寄る。そして、その胸の中に埋めた。その大きな体を丸めて、私を包み込むようにぎゅっと抱きしめる。
がっしりしていて温かい。
危険な状況なのに、心地良さと安心感がある。
御領の体から黒いモヤが溢れ出し、私たちの体の周りに広がる。
私たちはそのまま、階段を転がり落ちていく。一番下まで落ちると、賽銭箱へと叩きつけられた。
賽銭箱は木っ端微塵に砕け、木片とお金が激しい音を立てて飛び散った。
「ぐっ……」
御領の張りつめていた筋肉が弛緩し、私は彼の懐から這い出す。彼が身に纏っていた黒いモヤが、薄くなって消えていく。
「あ、血が……」
「問題ない。マキこそ、大丈夫か?」
「私は大丈夫! イガグリくんが……」
御領は、私の頬にその大きな手を当て、ほっとした顔をする。
「良かった。刷り込みの呪いには掛かっていないみたいだな」
「え、刷り込み?」
御領は、ゆっくりと上体を起こしながら説明する。
「そう、権現の呪い。人の心を操る呪いのことだ。あの時、先生に掛かっていたのはその呪いだった」
やっぱり。
権現は、同じ呪いをユノにも掛けていたんだ。
「マキもその呪いを受けていたら、権現の番になってしまうんじゃないかと……」
御領は階段の上、本殿にいるはずの権現の方向を睨みつける。
でも、まだ立ち上がることはできない。
「ねえ、こんな戦いやめよう。私があなたの番だから? 番じゃなかったら、こんなことにはならなかったの?」
「……気にするな」
「気になるよ! 分からないことだらけなんだもん」
私は御領の頬を両手で挟み、私の顔に向ける。私たちの視線が交わる。
まだ、何かを隠している山吹色の瞳。
何を考えているのか分からない。
「ねえ、全部教えて? 私はあなたを信じたいの。神隠しの時に何があったかも」
「怖い思い出だ。忘れたままの方が良い」
御領が、首を振って再び視線を逸らそうとする。
私は諦めない。
私のこと、どう思っているの?
「良くない! 私とあなたが、最初に出会った時でしょ」
「その記憶は俺が封じた。怖い記憶も、鬼の番という運命も忘れて、マキは好きに生きれば良かったんだ」
鬼の番の運命も忘れて……?
つまり御領は、私と結婚しなくても良いって思っていたってこと?
「番じゃなくても良いのに、私を守ってくれていたの?」
「もちろんだ」
嬉しい。
その言葉を聞いて、私はそう思った。
彼の言葉に嘘偽りはない。運命なんかじゃなく、純粋に私を守ろうとしてくれたんだ。
じゃあ、どうして? どうして私を守ろうと思ったの?
その答えは、封印された私の記憶の中にある。
「お願い、思い出させて。あなたを理解するのに本当に必要なことなの」
私は、御領を抱きしめた。彼が少し慌てる。
「お、おい」
「大丈夫。イガグリくんがいるから怖くない」
御領は一旦瞳を閉じ、ゆっくりと開く。
何かを決意するかのように。
「分かった」
御領は私の額に手を当てて、私に掛かっている封印を解く。
黒いモヤが私の頭から吹き出す。すぐに蒸発するように消えていく。
「俺も、もっとマキのことを理解したいと思った。マキの言うことを信じよう」
御領は、ポンポンと私の頭を撫でた。
私が目を閉じると、子どもの頃の思い出が、蘇ってくる。
……公園で私を呼ぶ声。
……私の手を掴んで引っ張る大きな手。
……恐ろしさに震える私。
そして……。
すでに思い出していたことを補完するように少しずつ。そして、完全に忘れていたことも、モヤが晴れるように。小学三年生の記憶が戻ってくる。
「危ないなぁ。自分の番を危険な目に遭わせるなんて。僕と一緒なら、そんなことにはならないのに」
権現がゆっくりと階段を降りてきた。
「……許さん」
御領は呻くように怒りを露わにした。今まで私が見た中で、一番恐ろしい顔。
傷付いた体で立ち上がろうとするけれど、体中の力が抜けてしまっているみたいだった。
「落下の衝撃から彼女を守るために、霊力を使い切ったようだな」
権現が落ちていた小銭を踏んで、ジャリッと音がする。一歩一歩私たちに近づいてくる。
「やめろ!」
御領はなんとか膝で立ち、権現の前に立ちはだかる。私を守るように。
「もう、お前に僕を止めることなんてできない」
権現の表情には、再び余裕の笑みが浮かんでいた。
素早い動きで、スッと私の背後に回り込む。
そのまま私の手を掴んで引っ張った。
「いやっ!」
無理やり階段の方へと引き上げられる。
本殿に連れて行って、無理やりにでも番の誓いを立てさせるつもりだ。
「待て……」
御領が無理やり立ち上がる。でも、それだけで精一杯。それ以上動くことはできない。血が滴り、痛々しい。
権現は、それを見て悦に入る。
「あんな弱い奴は放っておいて。さあ、行こう。豊田麻姫さん」
私を力強く引っ張っていこうとする、権現の大きな手。
この手の感覚……思い出した。
「今、私の手を握っているのは……」




