2話 御領
広島県東部に位置する福山市に、私たちの学ぶ大学がある。
今日は、小春日和を超えて、残暑が戻ってきたような暑さ。
午後からは民俗学の講義。福山とその近隣の市の伝説や伝承についての授業だ。
地元の昔話って、意外に面白かった。
講義が終わると、ユノが「眠くなってきた〜」と目を擦る。
授業中、彼女が寝落ちしていたのを私は見ている。何度も顎が頬杖から外れていた。
「甘いもの食べるといいよ」
私はそう言って、おやつ用に持ってきていたお饅頭の袋を、バッグから取り出して見せる。
「やったー。マキって、この茶山饅頭って大好きだよね」
「抹茶の香りと白餡の控えめな甘さが良いのよ」
お饅頭を食堂で食べようと校舎を出たところだった。
ドサッ
「痛った~い!」
ユノがまた転んだ。舗装された段差のない道なのに。
膝をすりむき足を挫いたユノは、地面に腕をついた時に、手首を捻っていた。
私は、痛みに涙ぐむユノの腕を支えて、近くのベンチへ運ぶ。
「ユノ、最近よく転ぶよね」
今年に入ってから、ユノの足には生傷が絶えない。目の下の青あざも、一昨日、駅の近くで転んだ時にできたものだ。
「総合病院でも診てもらったんだけど、何ともないらしくて……」
ユノは不安そうな声を漏らす。
そんな彼女の足元に、黒いモヤのようなモノが絡まっているのに気が付いた。
「なんだろう、これ?」
「どうしたん?」
モヤを手で振り払おうとしてみるが、ユノの足に纏わりついて離れない。
足にベッタリと貼り付いているわけでもない。不気味な毛糸がふわりと巻きついているような。
「なんか、この黒いのが取れなくて」
「黒? どれ?」
「これ」
私がユノの足首を指差すが、ユノは小首を傾げる。
「ユノには見えないの?」
「気持ち悪いこと言わんで、マキ。怖いじゃない」
目を擦っても、瞬いても、そこにモヤはある。
見える人と見えない人がいるなんて、一体、このモヤは何なの?
気味が悪くなってきた。
「ユノ。最近、調子悪かったりする?」
「全然! 転ぶ時も、ふらつくとかじゃなくて、何かに引っかかってる感じなんよ」
やっぱり、この気持ちの悪いモヤが原因に違いない。
私は扇いだり、吹いたりしてみるが、モヤは変わらず、ユノの足元で揺らめいている。
「ねー、ホントにやめてよぉ」
ユノが痛そうに手首を擦る。
これ以上は何を言っても、ユノの不安を煽るだけになってしまう。
「とりあえず、保健管理センターに行こう。二号館だよね」
「でも、そこまで歩けんかも……」
私も、ユノを支えてホケカンまで歩くのは難しそうだ。
「ちょっと待ってて、誰か呼んでくる」
私は先に食堂へと向かう。あそこなら、この時間でも誰かがいるはず。
ふと、視線を感じた。
普段の私はそんなに敏感じゃない。誰かに見られていても気付かないことがほとんどだ。
なのに、最近誰かから見られているような不思議な感覚に包まれることがある。あのピクニックの日からだろうか。
と言っても、いつも何もなかった。気のせいで終わっていた。
でも、今日は違った。
校舎に寄りかかって、こちらの様子を見ている人がいる。
とても背の高い、体の大きな人だ。筋骨隆々で太い腕や足。無愛想な顔つき。そして特徴的なツンツンとした髪型。
きっと健康スポーツ科学科の学生に違いない。
この人なら、ユノを軽く運んでくれそうだ。
私は彼の元へ走る。
「ちょっと、お願いがあるんです。友達が転んじゃって、助けて欲しいんです」
「……見えてるのか?」
彼は驚いて目を見開いた。
「え、何ですか?」
「……何でもない」
「友達を助けてくれませんか」
「俺が?」
「もちろん」
他に誰がいるというのか。
彼は腕組みを崩して、頷く。
「わかった」
「こっちです」
彼を連れて、ユノの所へ戻る。
「ひぃ!」
ユノがめちゃくちゃ驚く。
「こらこら、驚き過ぎよ」
「だって、何もない所からこの人が突然出てきて……」
ユノが彼を指差す。これから助けてくれる人に対して、なんて失礼なのかしら。
「そんな訳ないでしょ」
彼は校舎の所にいたじゃない。
嫌な思いをしたから、やっぱり助けないとか言い出さないと良いけど。大丈夫かな。
私が顔色を伺うと、彼は失礼なんてどこ吹く風の、全く気にしてないという無表情だった。
「彼が助けてくれるって。そうだ。あなた、名前は?」
「御領だ」
ぶっきら棒で、あまり人当たりの良い感じの喋り方ではないけれど、根は優しそうな人に感じた。
「肩貸してあげて」
「この方が早い」
御領は、ユノの背中と足元にすっと腕を伸ばすと、お姫様抱っこをする。
「あひゃあ」
ユノが変な声をあげる。
「ちょ、恥ずかしい」
「わがまま言わない。背に腹は代えられないでしょ」
とは言ったものの、さすがにこの助け方は考えてなかった。大胆だなと、私はちょっと引いていた。
ユノはとても小さな声で御領に「ありがとう」と呟く。
「ホケカンへお願い」
御領は私の顔を見てキョトンとする。
「ホケカン?」
ホケカンを知らないなんて、一年生かな?
でも、もう半年も経っているし、場所くらい知ってて当たり前だと思うけど。
「保健管理センターよ。こっち来て」
私はホケカンを案内する。
御領はユノを抱えているのに、私よりも足が速い。さすが、スポーツやってる人は違うわ。
彼も、ユノの足を気にしているようだ。走りながらも、ユノの足元をチラチラと見ている。
もしかして、私と同じように黒いモヤが見えているのかしら。
あっという間に、ホケカンに到着。
彼は簡易ベッドの上にユノを置いて、「外で待つ」と言って出て行った。
ユノをホケカンの看護師さんに診てもらう。
看護師さんは呆れたように驚く。
「あなた、今月で三回目よ」
ユノはすっかり顔を覚えられていた。
ユノから病院で異常なしの診断だったと説明され、看護師さんも「気をつけるしかないわね」と返すしかなかった。
痛み止めをもらって、ユノは少し安心したようだった。
「不思議と、学校の近くでしか転ばんのよ」
「前、ピクニックでも転んでたでしょ」
私のツッコミに、ユノは「そうだったね」と笑う。
ユノは笑えるくらい、落ち着いたってことだ。
「というか、マキがいると……」
そこで、ユノは止まった。
「私が何?」
「いえ、何でもないわ」
気になる言い方。
「私が何よ」
ユノは少し考えてから口を開く。
「マキがいてくれると、助けてくれるから助かるわ」
「変な日本語!」
二人で笑った。
でも、少し気になった。ユノが本当に言いたかったことは違うんじゃないか。
私がいると……。
なんだろう。
あの黒いモヤに関係あることかな?
私はユノから少し離れた所で、看護師さんにモヤのことを聞いてみた。
「ユノの足にまとわりついてる黒いモヤモヤしたものが気になるんです。だけど、本人には見えてないみたいで」
「黒いの? どれかしら?」
「彼女の足首の上あたりです」
「?」
私はその場所を指し示すが、看護師さんにも見えていないようだ。
私にしか見えてない?
怖い怖い。
私、霊感とかないし。
大丈夫。御領って人も見えていたみたいだから、私だけ見えてるってことはないはず。
まだ二対二。フィフティフィフティ。
きっと怖いものじゃない。
私はそう自分に言い聞かせる。
「仕事終わったら、お兄ちゃんが迎えに来てくれるって」
ユノはスマホを置く。
看護師さんと話をして、ここで二時間ほど休んでいくことになった。
私もホッとした。
「じゃあ安心だね」
「あのさ」
ユノが口元に手をかざし、私の耳に近づけてきた。
内緒の話をしたいらしい。
「御領さんにお礼言っといて」
そんな声を潜めて言うほどのことじゃない。
「自分で言いなさいよ」
「だって、ほら、恥ずかしいじゃない」
「恥ずかしい?」
ユノは子どもみたいな、歪んだ笑顔になる。私はユノのこの顔を知っている。小学生の頃、好きな子の話をしたときに、彼女はこの表情をしていた。
「あの、できたら連絡先も。お願い!」
もしかして、お姫様抱っこされて好きになっちゃったの?
そんな単純な……
なんて、直接言うのは野暮なので。
「はいはい、分かりました。お礼もしなきゃいけないし、聞いておくわ」
「お願いね」
連絡先を聞くなんて、なんだかナンパするみたいで気が引ける。
でも、お礼をしたいのは間違いないことだし、仕方ないわ。
よし、ユノのために一肌脱ぐか。
「無理しちゃダメよ」
私はユノにそう言いつけて、ホケカンを出た。
もう次の授業の時間が始まっているから、あまり外に人はいない。
辺りを見ると、道の端に御領が立っていた。
さっきは一生懸命だったから、何とも思わなかったけど、彼はただ立っているだけなのに、何か違和感を覚えた。
何かが足りてない。
具体的にどうおかしいかは表現しづらいけど、存在がのっぺりとしている……ような?
あんな存在感の塊のような巨体なのに、どうしてだろう。
なんてこと考えながら、お礼をしなければと彼に駆け寄る。
そう言えば、この暑いのに、結構な時間待たせちゃったな。
「あの、待たせて、ごめんなさい。あ、さっきはありがとう」
連絡先を聞かなきゃという緊張感もあって、うまく喋れない。
「やはり見えるのか」
御領が呟く。
初めて話しかけた時にも、そんなことを言っていた。その目立つ大きな身体で、かくれんぼでもしているつもり?
……そうか。この人は友達がまだいないんだ。
授業の時間中に外を一人でウロウロしているのが、その証拠。無愛想だし、近寄りがたいってのもあるのかな。
一年生で友達ができなかったから、自分は誰にも見えてないんじゃないかって、卑屈になっているのかも。
なんて可哀想なんだろう。
だって、文句も言わずにすぐ助けてくれるいい人なのに、誰にも理解されてないんだよ。
私は彼に同情した。
そうよ、私の方が先輩なんだから、ビクビクする必要なんてないのよ。
「彼女は、もう大丈夫だって。おかげで本当に助かったわ」
御領は目を細める。
あまり表情は変わっていないけど、笑っているのだろうか。
不思議な色の瞳。つり目だから少しキツい印象を受けるけど、その奥には優しさを感じた。
鼻筋も通っていて、割とイケメンじゃない。間近で見たユノが惚れるのも納得だ。
「大丈夫じゃない」
御領はホケカンの方をちらりと見る。
「あの子は取り憑かれている」
「はぁ?」
突然、この人は何を言い出すのか。
だから、友達いないんだ。
霊が見えるって言って脅かしてくる人とは距離置きたいもんな。
私は見えない人だから、関係ないって……
見えない?
いや、見えた。
「お前も見えているだろ、足の黒いのが」
御領の言葉に心臓が跳ね上がる。
あの黒いモヤ。
やっぱり御領にも見えていたんだ。
「確かに、最近ユノはよく転ぶけど、あの黒いやつのせいだとは……」
私は言い淀む。
あ、自分から見えてるって言っちゃった。
でも、実際に見えたし。気の所為だったとは思わない。
私って、そんなスピリチュアルな人だったかしら。
「あいつはお前を狙っている」
あいつって誰?
え、私を?
ユノじゃなくて?
「早く探したほうがいい」
混乱気味の私に、御領は畳み掛けるように言葉を重ねてくる。
ママも、大学では宗教系の勧誘には気を付けろって言ってた。宗教系は困っている人の弱みに付け込んで、不安を煽るんだそうだ。
完璧に合致します。ありがとうございました。
ユノには連絡先聞けなかったと伝えよう。
「近くにいる」
彼はそう言うと、私に背を向けて歩いていった。
あれ?……私を置いてくの?
ここから、いろいろと神様のご利益を語るんじゃないの?
御領は大きな身体を屈めて、植え込みの下を覗き込む。
本当に何かを探しているようだ。
「ねぇ、一体何?」
「妖怪だ」
彼は真剣な顔をしている。
「妖怪って、あの妖怪?」
民俗学の講義で今日聞いたばかりの、民話や伝承に出てくる化物。広島と岡山の妖怪の話を十個ほど習った。
御領は私の質問には答えずに、生垣の下へと移動する。
今は人通りがないから良いけど、教室の窓から見たら、不審者の動きだよね。
低い位置で揺れる茶色のツンツン頭は、まるで栗のトゲトゲみたいで、ちょっとカワイイ。
まあ、鍵を落として探しているんですって感じだから大丈夫だとは思うけど。
私は気になっていたことを聞く。
「黒いモヤと関係あるの?」
「ああ、妖怪の呪いだ」
「呪い……」
やっぱり、この人は見える人なんだ。
「どうしたら良いの?」
半信半疑ではある。でも、私にも黒いモヤが見えたのだから、頭から嘘だと決めつけるわけにもいかない。
なにより、親友のユノのためだ。
「お前も探すのか?」
御領の問いに、私は頷く。
と同時に、「お前」呼びが気になる。
「先輩に向かって『お前』って言わないでくれる? 私には豊田麻姫って名前があるんだから」
「分かった。すまなかった」
御領は素直に謝る。が、やっぱり先輩に対する礼儀が足りない。「すみませんでした」でしょ。
私がもうひと言注意しようとすると。
「マキ、あっちを頼む」
おおい、いきなり下の名前を呼び捨てかよ。人としてどうなんだ。
もしかして、帰国子女? 今まで海外に住んでいたから、直接的な呼び方しかできないとか?
日本のマナーとか教えてもらってないんだろうな。
私の気持ちは同情から憐れみに傾くが、呼び捨てにムカついてもいるから、言い返す。
「あなたの頭って、イガグリみたいよね。イガグリくんって呼んでもいい?」
「!? それは構わない……」
御領が戸惑っているような喜んでいるような複雑な顔をする。
「良いんだ!?」
心の中だけでツッコむつもりが、思わず声に出してしまった。
「ああ」
もう御領は涼しげな表情に戻っていた。
「イ、イガグリくん。何を探したら良いの?」
ちょっと吹き出しそうになりながら、私は聞く。
「黒い煙……、呪いを探してくれ」
「分かったわ」
あの黒いモヤね。
私は御領の妖怪探しに付き合って、倉庫の下を探す。
「無いわ」
「こっちもだ」
「本当に、こんな下の方に隠れている妖怪なの?」
御領は右手を顎に当て、少し考えるような素振りを見せる。
「足元に隠れて転ばせる」
さっきの民俗学の講義で似たようなのを習った気がする。
でも、私は不思議だった。
「誰の足でも良いなら、下にいると思うけど、誰かを狙うっていうなら、全体がよく見える高い所にいて、相手を見つけるんじゃない?」
御領は、驚いたような顔をする。
「そうか、どうりで」
御領は立ち上がり、それぞれの建物を見上げる。
「あそこだ」
彼の言葉に私も上を見る。彼の見つめる先に、黒いモヤの親玉みたいなのが。
あれが、ユノを傷つけた妖怪。
怖さよりも、怒りの方が強かった。
御領は、もう駆け出していた。素晴らしい勢いで、その建物の非常階段を音もなく駆け上がっていった。
「イガグリくん、ちょっと待ってよ」
私もその後を追いかける。
屋上まで続く非常階段は、外壁工事の準備のために、立ち入り禁止の札が掛けられているだけで、施錠はされていない。
トントンと金属製の階段を叩く足音が響き、徐々にペースが落ちていく。
この高さまで階段で上がるのは久しぶりだ。運動不足だとは思ってはいないけど、さすがにハアハアと息が切れる。
校舎の屋上。
工事用の足場やら資材がいろいろと立て掛けてある。
御領と、黒いモヤが追いかけっこをしていた。御領も足が速いのだが、モヤの方が機動性に優れる。
うわ、こっちに来た。
私は思わず頭を抱えてしゃがみ込む。
近くまで来たモヤは、何か小動物のように見えた。
すごい勢いで私の頭の上を過ぎていく。
御領が私の所に駆け寄ってきた。
「大丈夫か」
「ええ」
反対側に行った黒いモヤを見ると、こちらを見て、距離を測っている。
だんだん、動物の形に見えてきた。
「何あれ?」
「妖怪だ。スネコスリ」
「はあ? あれがスネコスリ?」
御領の回答に私は叫んだ。
スネコスリは、今日の民俗学の講義で習ったばかり。福山市の東隣である岡山県井原市の妖怪。可愛くて、愛らしい、猫みたいな……
でも、そこには、グレムリンみたいな醜悪な顔。
体つきは猫より一回り大きく、長い毛並みのように黒いモヤが揺らめいている。
「待て」
再度、御領が距離を詰める。
スネコスリが走り出す。
ただ逃げるだけじゃない。わざと速度を落とし、捕まえられそうな距離まで近づいた所で、急に方向転換する。意地の悪い逃げ方だ。
私も手伝わなきゃ。
あいつのせいでユノが傷ついたんだ。
一緒に走り出す。
スネコスリの進む方に先回りして、行く先を遮る。
そして、脇を抜けようとしたスネコスリを追いかけ……
「あ」
私が一歩踏み出した先は、屋上の端だった。
足がずり落ちる。
バランスが崩れる。
妙な浮遊感。
「マキ!」
大きな手が私の背中まで伸びてきた。
御領だ。
そのまま彼は、私を抱きかかえた。
意図せず、お姫様抱っこ。
うわ、なにこの安心感。肉厚なソファに包まれているように、しっかりと安定している。
「端に行くな」
「あ、ごめんなさい」
御領の顔が今までで一番近くにある。
真剣な眼差し、通った鼻筋、引き締まった口元。
今、のっぺりとは感じない。
……かっこいい。
私の心臓がバクバク言ってる。
うん。きっと落ちそうになったから、こんなにドキドキしているんだ。彼の顔と優しさのせいじゃない。
だって彼はイガグリくんだよ。
私は自分にそう言い聞かせながらも、こんなにしっかり密着したら、心音が伝わってしまわないかな。と心配していた。
御領に降ろしてもらい、私は屋上の中央にまとめて置いてある資材の側に行く。
捕まえる手伝いをするのは諦めた。あとは御領を見守ることしかできない。
少し日が傾き、私の足元の影が伸びていく。
「あ、影……」
私は気付いた。
追いかけっこをしているスネコスリと御領には影がない。
スネコスリは妖怪。影がないのはそのせいだろう。
と言うことは、御領も。
彼がのっぺりとして見えた違和感はこれだったんだ。
彼が階段を上る音がしなかった。
彼が言った「見えるのか」の意味が分かった気がする。ユノが突然現れたと驚いたことも。
全て繋がった。
私の全身の毛がそばだつ。
手に嫌な汗が浮いてくる。
さっきよりも鼓動が速い。
間違いない、彼は。
私は動揺して、スネコスリがこちらに真っ直ぐ向かっていることに気付くのが遅れた。
「伏せろ!」
御領の叫び声。
スネコスリは、立て掛けてあった資材を転ばせる。
鉄の棒が私の上に倒れてきた。
「キャー!」
私は叫び、目を閉じる。
ガラガラガラン
鉄の棒が屋上に散らばる音。
痛みはない。
私はゆっくりと目を開く。
そこには、私を庇うように御領が立っていた。
スネコスリを睨みつけるその目は、怒りに燃えていた。その瞳の色が山吹色へと変わる。
「許さん」
御領が低い声で唸る。
一瞬、周囲の空気が震える。
スネコスリも動きを止める。
彼が息を吸う。
身体がバキバキと鳴り、さらに一回り大きくなる。肌が赤褐色に染まる。
おおよそ人間が出すことのない音を立て、御領の頭から角が生えてきた。
爪が、歯が、そして目つきが鋭さを増していく。
その妖怪を私は知っている。
「鬼……」
やはり彼も妖怪だった。
そう考えている自分が、予想どおりで安心しているのか、鬼を実際に目の当たりにして恐怖しているのか分からなかった。
きっと、両方だったんだ。
鬼は吠えると、駆け出した。
今までとは桁違いのスピード。目で追うのがやっとだ。
スネコスリが慌てて逃げようとするも、もう遅かった。数歩動いた所で、スネコスリは鬼に捕まった。
鬼はスネコスリを締め上げる。
スネコスリは足をバタバタとしながら、命乞いをする。
「悪かった。もうしない」
「お前が進んでやるようなことじゃない。誰に頼まれた?」
その低い声は、畏怖と威厳を纏っていた。
イケボじゃん。
私は恐怖の塊に直面しているはずなのに、心の中にはどこか余裕も感じていた。
スネコスリが首を振る。
「言えねぇ」
「では、死ぬか?」
スネコスリは刹那の沈黙の後、「言えば、死ぬよりも酷い目に遭う」と答えた。
「ならば死ね」
「もうこの町には近寄らない」
「知らん」
鬼が腕に力を入れる。
スネコスリが苦悶の声を上げる。
私は思わず駆け寄って、鬼の腕を掴んで止める。
「ちょっと待って。逃がしてあげて」
「なぜだ?」
鬼は、山吹色の瞳で私を見つめる。
怒りという感情を具現化したような顔。でも、その瞳には彼の持つ優しさが残っているのが分かった。
「可哀想だよ。もうしないって言ってるんだし」
鬼はスネコスリを解放し、短く「去れ」と告げる。
スネコスリは、私を一瞥すると、黒いモヤが溶けるように消えていった。
鬼が、御領に戻る。
私は声を上げて笑った。
さっきまでの迫力に比べたら、今の姿は可愛いものだ。
「鬼が、怖くないのか?」
「うん。イガグリくんが優しいのを知ってるからね」
彼は何も答えなかったが、ちょっとだけ笑っているような気がした。
「これ、食べる?」
私はバッグを探って、ユノと一緒に食べる予定だったお饅頭を取り出した。
「なんだ?」
「茶山饅頭って言うの、名物なんだよ」
御領は小さなお饅頭を口の中に放り込む。
「ん……うまい」
「良かった」
私も一緒にお饅頭を食べる。
走り回って疲れた体に、抹茶の香りと、白餡の甘みが優しかった。自然に笑顔になる。
御領は、私の顔を見て満足そうに頷く。
「では、またな」
「……またね」
そう言葉を交わす。
私が瞬きをした一瞬で、彼はもういなくなっていた。
全身から力が抜ける。私はへたり込むように尻もちをつく。
「あ!」
ユノ、ごめん。連絡先聞き忘れた……
っていうか、鬼なんだから、スマホとか持ってるはずないじゃん!
虚空へのセルフツッコミは、私の心の中だけにこだました。




