楽しい優里恵
優利恵は、
ある朝ふと気づいた。
「……今日、起きるの嫌じゃない」
それは彼女にとって、
とても不思議な感覚だった。
昔は違った。
目を覚ますたび、
胃が重かった。
今日は誰に怒鳴られるか。
誰に見捨てられるか。
何を失敗するか。
常に先回りして怯えていた。
だが今。
窓から朝日が入る。
劇場の廊下を、
誰かが走っていく音。
厨房からスープの匂い。
ロイの笑い声。
ハルが帳簿を抱えて転がっていく気配。
それを聞いて、
自然に口元が緩んだ。
優利恵は、
しばらく天井を見つめた。
「……楽しい」
ぽつりと零れた。
その日も忙しかった。
新人の相談。
公演調整。
衣装修理。
王都南区からの出張依頼。
だが以前と違った。
“やらされている”
感じが薄い。
自分で選び、
納得して動いている。
だから疲れても、
芯が削れない。
さらに大きかったのは、
「いらんこと」を言われなくなったことだった。
昔の世界には、
常に余計な言葉が飛んでいた。
「女のくせに」
「芸人なんて」
「その歳で」
「もっと愛想良く」
「代わりはいくらでもいる」
人格ではなく、
消耗品として扱う言葉。
だが今の優利恵座では、
それがかなり減っていた。
完全には消えない。
それでも、
誰かが余計な侮辱を言えば、
周囲が止める。
「それ必要か?」
そう言う人間が増えた。
その空気だけで、
人はかなり生きやすくなる。
優利恵は、
昔は知らなかった。
人間は、
大きな暴力だけで壊れるのではない。
毎日の小さな否定で、
少しずつ削れていく。
逆に。
少しの安心。
少しの敬意。
少しの笑い。
それだけで、
かなり回復する。
ある日。
若い芸人たちが、
休憩室で馬鹿話をしていた。
ロイが義手を外して、
新人を脅かしている。
ハルが呆れながら縫い物をしている。
片目の歌手が笑っている。
その光景を見ながら、
優利恵は急に胸が熱くなった。
“ああ、
私はこういう毎日が欲しかったんだ”
特別な成功ではない。
豪華な宮殿でもない。
安心して働ける。
変に傷つけられない。
少し疲れ、
少し笑い、
ちゃんと眠れる。
それだけだった。
夜。
劇場の屋上。
王クラークが視察帰りに立ち寄った。
優利恵は、
温かい茶を渡す。
王は彼女の顔を見て、
少し笑った。
「最近、本当に顔が変わったな」
優利恵は照れ臭そうに笑う。
「そうですか?」
「ああ。
昔は常に戦場にいる顔だった」
風が吹く。
王都ドリトルの灯りが広がっていた。
優利恵は静かに言った。
「最近、
毎日が普通に楽しいんです」
王は何も言わず聞いていた。
「悔いがない仕事して、
ちゃんと休めて、
変に否定されなくて」
彼女は少し考えた。
「それだけで、
人ってこんなに穏やかになるんですね」
クラークは遠くの街を見る。
「国も同じだ」
短い言葉。
「無理に英雄を作るより、
普通の人間が壊れにくい方が強い」
優利恵は笑った。
「昔の私、
絶対そんなの信じませんでした」
「昔のお前は、
生き残るので精一杯だったからな」
その言葉に、
優利恵は静かに頷く。
今でも傷はある。
急に不安になる日もある。
見捨てられる夢を見ることもある。
だが、
もう昔のように飲み込まれない。
安心できる場所。
信頼できる仲間。
現実を見られる感覚。
それらが、
少しずつ彼女を支えていた。
屋上の下から、
笑い声が聞こえた。
ロイの声。
「だから義足は飛ぶって言っただろ!」
誰かの悲鳴。
ハルの呆れ声。
優利恵は吹き出した。
「またやってる……」
王も珍しく声を出して笑った。
その瞬間、
優利恵はふと思った。
昔、
“幸せ”という言葉は、
遠い幻想だった。
でも今は違う。
幸せとは、
こういう壊れにくい日常の積み重ねなのかもしれないと。




