第78話 怪物なんか、君をさらっていかない
【速報】たった一本の乳歯が、二人の距離を変える――?
― 黒沢健、予想外すぎる"子育てイベント"発生!! ―
ぐらぐらの乳歯。
初めての歯抜き。
たったそれだけの出来事。
……のはずだった。
芽衣の何気ない一言。
戸惑う黒沢。
そして。
誰にも言えなかった小さな気持ちが、
少しずつあふれ出していく。
笑っていたはずなのに、
気づけば胸がぎゅっと温かくなる――
黒沢と芽衣。
今日という日は、
きっと二人にとって忘れられない一日になる。
家の中は。
静かだった。
猫たちは。
思い思いの場所で。
のんびり。
春海は。
洗濯物を干している。
健は。
ソファに座って。
猫を撫でていた。
穏やかな。
昼下がり。
その時。
とん。
健の足に。
小さな手。
健は。
視線を落とす。
芽衣だった。
少しだけ。
困った顔。
「……あのね。」
健は。
すぐに気づく。
いつもの芽衣じゃない。
「どうした?」
芽衣は。
口元を押さえた。
「歯が……」
「痛いの。」
……
「あ。」
健の心の中だけ。
ぴたり。
時間が止まる。
(歯……。)
(とうとう来たか……。)
乳歯。
ぐらぐら。
抜ける。
知っている。
もちろん。
知識はある。
でも。
抜いたことは。
一度もない。
(いや……。)
(これ……。)
(俺がやるのか?)
心の中は。
少しだけ。
大騒ぎ。
でも。
顔には出さない。
「ちょっと見せて。」
健は。
椅子を引く。
芽衣を。
そっと。
立たせた。
これなら。
少しだけ。
目線が近い。
「ぐらぐらする?」
芽衣は。
こくん。
「すっごく。」
健は。
少し考える。
(こういう時って……。)
(どうするのが正解なんだ?)
「口。」
「開けられる?」
「うん。」
芽衣は。
素直に。
口を開けた。
健は。
そっと。
歯に触れる。
ぴくっ。
芽衣の肩が。
小さく震えた。
「あっ……。」
痛そうに。
健の腕を。
ぎゅっ。
握る。
健は。
すぐに。
手を離した。
「結構痛そうだな……。」
芽衣は。
小さな声で。
聞く。
「ねぇ……。」
「もう。」
「抜いちゃったほうが。」
「いいのかな?」
健は。
少しだけ。
笑った。
怖いはずなのに。
ちゃんと。
覚悟を決めようとしている。
その姿が。
なんだか。
芽衣らしかった。
「もう抜けそうだし。」
「今抜けば。」
「たぶん楽になる。」
「もちろん。」
「自然に抜けるまで。」
「待ってもいい。」
芽衣は。
近くにいた猫を。
抱き上げた。
ぎゅっ。
真剣な顔。
考える。
考える。
考える。
まるで。
世界一大事な。
決断。
そして。
小さく。
息を吸う。
「……お願いします。」
健は。
にこっと笑う。
「よし。」
ころん。
健の手の中。
小さな乳歯。
芽衣は。
じっと。
それを見つめていた。
「……終わった。」
健は。
ほっと。
息をつく。
「痛くないか?」
芽衣は。
口の中を。
そっと舌で触る。
確認。
もう一度。
確認。
それから。
ぱちぱち。
瞬きをする。
「……いたくない。」
小さな声。
少しだけ。
不思議そう。
「本当に?」
「うん……。」
芽衣は。
もう一度。
口元を触る。
痛くない。
さっきまで。
あんなに痛かったのに。
もう。
平気だった。
「ありがとう……。」
小さく。
ぺこり。
頭を下げる。
健は。
少し照れくさそうに笑う。
「どういたしまして。」
そう言いかけた。
でも。
芽衣は。
まだ。
続けた。
「あのね……。」
「助けてくれて。」
「ありがとう。」
「今日。」
「すごく。」
「うれしかった。」
健は。
少し驚く。
「そんなに?」
芽衣は。
こくん。
「うん。」
少しだけ。
恥ずかしそうに。
笑う。
「歯を抜いてもらえて。」
「うれしかった。」
健は。
思わず。
笑ってしまう。
「そんなことで?」
芽衣は。
首を横に振る。
「違うの。」
少しだけ。
息を吸う。
何かを。
ちゃんと。
伝えたくて。
言葉を探す。
「わたしね……。」
少しだけ。
下を向く。
「男の人に。」
「お世話してもらったの。」
「初めてなの。」
……
健は。
動けなかった。
芽衣は。
その反応に気づいて。
あわてる。
「あっ……!」
「ち、違うの!」
「そういう意味じゃなくて……!」
顔が。
みるみる。
赤くなる。
「あのね。」
「ハルちゃんが。」
「わたしたちを。」
「育ててくれるって。」
「言ってくれた時。」
「わたし。」
「初めて。」
「お母さんができたって。」
「思ったの。」
少しだけ。
笑う。
優しい。
思い出。
「それでね。」
「お父さんの写真を見た時。」
「ハルちゃんが。」
「お父さんにもなるよ。」
「って。」
「言ってくれた。」
少しだけ。
間。
芽衣は。
小さく。
首を振る。
「でも。」
「ハルちゃんは。」
「女の人だから。」
「お父さんには。」
「なれないもん。」
その声は。
責めるようなものじゃなかった。
ただ。
幼い子どもが。
当たり前のことを。
当たり前に話している。
そんな。
静かな声だった。
健は。
何も言えなかった。
言葉が。
見つからない。
芽衣は。
まだ。
続ける。
「武くんはね。」
「大丈夫だよ。」
「って。」
「お父さんなんて。」
「いなくても。」
「寂しくないって。」
「言うの。」
少しだけ。
笑う。
でも。
その笑顔は。
少しだけ。
寂しかった。
「でも。」
「違った。」
「やっぱり。」
「寂しい。」
静かな部屋。
時計の音だけが。
聞こえる。
健は。
芽衣を見つめたまま。
動けない。
(……なんだ。)
(この気持ちは。)
胸の奥が。
少しだけ。
痛かった。
芽衣は。
小さく。
息を吸う。
「ねぇ。」
健は。
ゆっくり。
目を合わせる。
「わたし。」
「いい子になれたかな。」
……
健は。
意味が。
分からなかった。
「え?」
芽衣は。
すぐには。
答えない。
考える。
言葉を。
探す。
「ハ……。」
ぴたり。
止まる。
耳まで。
赤くなる。
「ハルちゃん。」
小さく。
言い直す。
「ハルちゃんね。」
「わたしたちのこと。」
「好きって。」
「言ってくれた。」
「今日も。」
「みんなが。」
「来てくれた。」
「美月さんも。」
「会いに来てくれた。」
嬉しかった。
本当に。
嬉しかった。
だから。
だからこそ。
怖かった。
芽衣は。
喉を押さえる。
少しだけ。
苦しそう。
泣きそう。
でも。
我慢する。
「これからも。」
「いい子でいたら。」
「もっと。」
「楽しいこと。」
「増えるかな。」
声が。
少しだけ。
震える。
「みんな。」
「いなくならないかな。」
「……」
「わたし。」
「ちゃんと。」
「できるかな。」
健は。
息を飲む。
その瞬間。
ようやく。
分かった。
芽衣が。
本当に。
怖がっていたものが。
誰かに。
叱られることじゃない。
失敗することでもない。
大切な人が。
いつか。
いなくなること。
また。
ひとりになること。
それが。
芽衣の中で。
ずっと。
小さな怪物になって。
心を。
叩き続けていた。
健は。
何も言わなかった。
言えなかった。
胸の奥が。
苦しかった。
苦しくて。
苦しくて。
でも。
その苦しさを。
芽衣に。
見せるわけにはいかなかった。
この子が。
欲しいのは。
大人の涙じゃない。
安心。
それだけ。
健は。
ゆっくり。
息を吸う。
一度。
目を閉じる。
そして。
もう一度。
芽衣を見る。
優しく。
笑った。
「それはさ。」
芽衣は。
小さく。
顔を上げる。
「いいことだよ。」
「え……?」
「お父さんって。」
「特別なんだ。」
芽衣は。
静かに。
聞いている。
「誰でも。」
「代わりになれる。」
「そういう存在じゃない。」
「だから。」
「寂しいって思うのは。」
「当たり前なんだ。」
「……!」
芽衣の目が。
少しだけ。
大きくなる。
誰にも。
言われたことが。
なかった。
「寂しくなるのは。」
「悪いことじゃない。」
「お父さんが。」
「それだけ。」
「大切な人だった。」
「ってことだから。」
芽衣は。
何も言わない。
言えない。
ただ。
その言葉を。
胸の中で。
何度も。
何度も。
確かめる。
そうだったんだ。
わたし。
悪い子だから。
寂しいんじゃ。
なかったんだ。
お父さんが。
大好きだったから。
だから。
寂しかったんだ。
ぽろっ。
小さな涙が。
一粒。
膝に落ちた。
健は。
その涙を見ても。
何も言わない。
急かさない。
ただ。
待つ。
芽衣は。
涙を拭く。
でも。
次の涙が。
また。
落ちる。
ぽろり。
ぽろり。
止まらない。
健は。
ようやく。
一歩だけ。
近づいた。
芽衣の前に。
しゃがむ。
目線を合わせる。
「芽衣。」
その声は。
とても。
静かだった。
「君は。」
「もう。」
十分すぎるくらい。
いい子だよ。
健は。
そっと。
両腕を広げた。
「おいで。」
芽衣は。
少しだけ。
迷う。
でも。
その迷いは。
ほんの一瞬だった。
とて。
一歩。
また一歩。
健の前まで。
歩いていく。
健は。
優しく。
芽衣を抱きしめた。
ぎゅっ。
小さな体。
細い肩。
まだ。
少しだけ。
震えていた。
「大丈夫。」
健の声は。
静かだった。
「君を怖がらせるために。」
「そんな怪物は。」
「いるんだ。」
少しだけ。
間。
「でも。」
「聞かなくていい。」
「怪物の言うことなんて。」
「信じなくていい。」
芽衣は。
息を止める。
健の胸に。
額を預けたまま。
じっと。
聞いていた。
「君は。」
「ちゃんと頑張ってる。」
「ちゃんと笑って。」
「ちゃんと泣ける。」
「優しい子だ。」
「だから。」
「大丈夫。」
「何も。」
「壊れたりしない。」
芽衣は。
唇を。
ぎゅっと結ぶ。
もう。
我慢できなかった。
ぎゅっ。
健の服を。
小さな手で。
掴む。
「うっ……」
小さな声。
その次の瞬間。
「うぇぇぇぇん……!」
堰を切ったように。
涙が。
あふれ出した。
ずっと。
ずっと。
我慢していた涙。
怖かった。
寂しかった。
失いたくなかった。
全部。
全部。
その涙と一緒に。
あふれていく。
健は。
何も言わない。
ただ。
優しく。
頭を撫でる。
よし。
よし。
ゆっくり。
何度も。
「大丈夫。」
「もう。」
「一人じゃない。」
芽衣は。
泣きながら。
何度も。
頷いた。
どれくらい。
時間が経ったのか。
誰にも。
分からない。
でも。
その日。
芽衣は。
少しだけ。
心が軽くなった。
健も。
気づいていなかった。
あの時。
自分が。
初めて。
父親みたいに。
誰かを。
抱きしめていたことを。
読んでいただきありがとうございます!♡
もしよければ、ポイントを入れていただけると、とても励みになります~!
(´;ω;`)
健は歯を抜いただけのつもり。
芽衣は、
心まで軽くなりました。
……本人はまだ、
お父さんに一歩近づいたことに気づいていません(笑)
また次回もよろしくお願いします!♡




