第76話 タケル、新しいスタイル
【悲しい知らせ】「ちゃんと面倒を見ています」と言った直後、息子は眼帯とギプスをはめてしまった。
――ハルミはそう言った。
彼女の信用は、
完全に失墜した。
そして、彼女が相手にしていたのは――
タケルの母親だった。
午前5時頃。
眠れない夜。
コーヒーを3杯。
逃げ場はない。
治療の問題ではなかった。
この朝、ハルミの社会的信用は
静かに消え去った。
朝。
五時二十七分。
病院は、
まるで別世界だった。
静か。
明るすぎる照明。
消毒液の匂い。
そんな中――
ぼさぼさの髪。
しわだらけのタンクトップ。
どう見ても徹夜明けの目。
そんな姿の春海が、
自動ドアを勢いよく飛び込んできた。
「お、おはようございます――じゃなくて!」
「おはようじゃなくて!」
「急患です!」
「息子が!」
「腕が!」
「折れたかも!」
「いや、ひねったかも!」
「ひびかも!」
「えっと――」
受付の女性が、
顔を上げた。
ぱちっ。
春海を見る。
そして。
「あっ……」
「この前の方ですよね?」
春海は、
一瞬固まった。
相手の顔は覚えていない。
でも。
向こうは、
ちゃんと覚えていた。
「……はい」
以前、
春海が瑞希に会おうとした時、
対応してくれた受付の女性。
井上沙織だった。
井上は、
優しく微笑む。
「分かりました。」
「すぐ救急外来へご案内しますね」
春海が、
心の中で世界中に感謝しかけた、
その時だった。
井上が、
少し首をかしげる。
「でも……」
「タケルくんのお目目、大丈夫ですか?」
「……目?」
春海は、
振り返った。
そして。
ようやく気づく。
タケルの右目が、
赤かった。
少し腫れている。
痛そうだった。
車の中では。
慌ただしくて。
まだ外も薄暗くて。
そこまで見る余裕なんて、
なかった。
「タ、タケルくん!?」
春海は、
目を見開く。
「目!!」
タケルは、
落ち着いた様子で手を上げた。
「ああ……」
「床の木くずが少し目に入っただけです。」
「もう取れたので、大丈夫です」
春海は、
再びパニックになりかける。
しかし。
その前に、
タケルが受付へ説明した。
「家でちょっとした事故がありまして」
「木の破片が目に入ったんですが、もう取れました」
「それと……」
「春海さんが間違って僕の腕の上に座っちゃって」
「少し痛むだけです」
井上は、
事情を聞いて優しくうなずいた。
「分かりました」
「それでは、お目目と腕の両方を診させていただきますね」
「こちらが受付番号になります」
「今日は少し混み合っていますので、お呼びするまで少々お時間をいただくかもしれません」
「は、はい!」
「ありがとうございます!」
春海は、
ただタケルを見つめていた。
申し訳なくて。
心配で。
落ち着かなくて。
言葉が、
うまくまとまらない。
春海は焦ると――
日本語まで、
一緒に慌て始めるのだった。
レントゲンの受付を済ませ、
診察も終わった。
土曜日の早朝。
奇跡的に、
待ち時間はそれほど長くなかった。
二人は、
待合室の椅子に座る。
春海は、
ふらりと立ち上がった。
コーヒーを取りに行くためだった。
待合室の隅には、
ポットと紙コップ。
小さなお菓子まで置いてある。
今の春海を動かしているもの。
それは、
カフェインと気合いだけだった。
紙コップを一つ取る。
コーヒーを注ぐ。
もう一つ。
さらにもう一つ。
少し考えて――
もう一杯。
「……そのうち私……」
「コーヒー豆になりそう……」
ぽつりとつぶやく。
すると。
待合室の椅子から、
タケルの声が返ってきた。
「もうなってると思います」
「…………」
春海は、
聞こえなかったことにした。
そして、
振り返った瞬間――
止まる。
廊下を歩いていた。
瑞希だった。
病院暮らしとは思えないほど、
今日もきちんとした身なり。
瑞希は、
まず春海を見る。
紙コップを三つ抱えた、
寝不足全開の春海。
次に。
待合室のタケルへ視線を移す。
赤い目。
腕は応急処置の三角巾。
静寂。
「……」
瑞希は、
ふっと微笑んだ。
「ちゃんと面倒を見てくださっているみたいですね」
春海は、
固まった。
「も、もちろんです!」
「これはその……!」
「ほんの小さな!」
「すっごく小さな!」
「夜中の!」
「ちょっとしたアクシデントで!」
「大丈夫です!」
「全部大丈夫です!!」
沈黙。
春海の脳内。
緊急会議。
議題。
『今すぐ話題を変えろ。』
春海は、
話題を変えることだけを考えた。
「そ、そういえば!」
「こんな朝早くから起きてるなんて、大変ですね!」
瑞希は、
一度まばたきをした。
「今、起きたところです」
「朝食を食べに行くところなので」
…………。
春海は、
ゆっくりと時計を見る。
五時四十分。
頭の中。
「あ。」
以上。
「……ご、ごゆっくり朝ごはんを!」
「わ、私はタケルくんのところへ!」
「ちゃんと面倒見てますので!」
「では!!」
早歩き。
いや。
ほとんど小走り。
逃げるように、
タケルの隣へ戻る。
何事もなかったような顔で、
すとん。
腰を下ろした。
瑞希は、
その様子を少し離れた場所から眺める。
「……」
小さく息をつく。
「まあ……」
「何も言わないでおきましょう」
そう呟くと、
静かに歩き去っていった。
それから数分後。
ようやく、
名前が呼ばれる。
まずは、
目の診察だった。
診察室。
医師が、
ライトを当てる。
目を診る。
いくつか質問をする。
そして。
診断が出た。
「少し炎症はありますが、異物は残っていませんね」
その言葉を聞いた瞬間。
春海は、
胸の前で両手を合わせた。
「ありがとうございます……!」
「本当によかったぁ……!」
医師は、
そのまま説明を続ける。
「木くずでしたので、小さな粉や細かい汚れが残っている可能性があります」
「念のため、十日ほど点眼薬を使ってください」
「しっかり潤してあげましょう」
「はい!」
「はい!」
「はい!」
春海は、
何度もうなずきながら、
慌てて手の甲にメモを書き始めた。
医師は、
処方箋を手渡した。
「それから、三日ほどは眼帯をつけてください」
「目を開けても構いませんが、しばらくは負担がかかるので」
「見えづらく感じることもあると思います」
春海は、
世界を救うための作戦会議でも聞いているかのような顔で、
真剣にうなずく。
「はい!」
「月曜日には、だいぶ良くなっていると思いますよ」
「月曜日!」
「目薬!」
「眼帯!」
「木くず!」
「細かい粉!」
「覚えました!」
医師は、
小さく笑ってから続けた。
「では、腕の診察がありますので」
「もう少々お待ちください」
「はい!」
二人は診察室を出て、
再び待合室へ戻った。
同じ椅子に腰を下ろし、
しばらく待つ。
そして――
春海は、
ようやく肩の力を抜いた。
どさっ。
椅子にもたれかかる。
ずるずると体が滑っていき、
今にも寝転がりそうな姿勢になる。
「……神様ぁ……」
「ありがとうございますぅぅぅ……」
「愛してますぅぅぅ!!」
タケルは、
そんな春海を見ながら、
少しだけ笑った。
どこか安心したように。
そして少し、
眠たそうに。
待合室の小さなテレビでは、
朝の情報番組が静かに流れていた。
その時。
「黒沢タケルさん」
名前が呼ばれる。
「はい」
タケルは立ち上がり、
再び診察室へ向かった。
診察室では、
さらに詳しい検査が行われた。
レントゲン。
触診。
腕の動きも確認する。
タケルは、
「大丈夫です」と答えていた。
けれど。
その表情は、
あまり大丈夫そうには見えなかった。
そして。
診断結果が告げられる。
「ひびが入っていますね」
春海は、
そっと目を閉じた。
静かに、
深呼吸をする。
しかし、
医師は続ける。
「骨折ではありません」
ぱっ。
春海は勢いよく目を開いた。
「よかったぁ……!」
「本当に……!」
医師は、
レントゲン写真を見ながら説明する。
「前腕はしばらく固定しておきましょう」
「十五日ほどギプスをつけてください」
「動かしてしまうと、手首にも負担がかかる可能性があります」
「分かりました!」
その後。
ギプスを巻き。
痛み止めを処方され。
注射も一本。
生活上の注意を聞いて。
診察は、
すべて終了した。
病院を出る頃には――
空の色は、
もう変わっていた。
淡い青。
朝日が、
ゆっくりと街を照らし始める。
時計は、
六時半頃。
ひんやりとした朝の空気。
静かな朝。
春海は、
空を見上げた。
ふぅ、と息をつく。
そこでようやく、
自分がどれほど疲れていたのかに気づいた。
車へ戻る。
走り出して、
数分後。
タケルは、
眠ってしまっていた。
シートにもたれ、
静かな寝息を立てている。
新しいギプス。
新しい眼帯。
ようやく、
安心したような寝顔だった。
春海は、
静かに車を走らせる。
来る時よりも、
ずっとゆっくり。
ハンドルをしっかり握りながら。
前を見て。
そして時々、
眠るタケルへ目を向ける。
そのたびに。
春海の表情も、
少しずつ柔らかくなっていった。
読んでいただき、本当にありがとうございます~!!♡♡
もしこの作品で少しでも笑顔になっていただけたら、★で応援していただけると、とっても嬉しいです!
皆さんからいただく評価は、
「もっともっと面白い作品を作りたい!」
と思える大切な励みになっています
(´▽`)
Pixivではキャラクターデザインやイラストも投稿しています!
Pixiv:
https://www.pixiv.net/en/users/121622272
また次回もよろしくお願いします~!!♡♡




