第73話 言ってはいけない言葉
【速報】ゴキブリ一匹のはずでした。
― 気づけば上司、黒猫、ねずみ、全員参戦していました ―
深夜四時。
眠れない竹流が見つけたのは、
一匹のゴキブリ。
それだけのはずだった。
……本当に。
それだけのはずだった。
しかし。
なぜか黒沢はスリッパを装備。
春海は叫び。
近所の黒猫は壁を越え。
気づけば家中が大騒ぎ!!?
たった一言が引き起こす、
午前四時の総力戦が始まる!!
午前四時三十七分。
静かだった。
家の中。
しん。
平和。
何事もない。
……少なくとも。
その瞬間までは。
竹流は。
キッチンの流し台に寄りかかり。
水を飲んでいた。
ぼーっと。
半分。
眠ったまま。
ほとんど。
自動運転だった。
ごく。
ごく。
「……」
その時。
床の隅。
何かが。
ちょろっ。
動いた。
竹流。
コップを止める。
「……」
目を細める。
暗い床を。
じぃっ。
もう一度。
ちょろっ。
「……ゴキブリ?」
コップを。
そっと置く。
ことっ。
眠気。
消滅。
ミッション開始。
竹流は。
近くにあった布巾を取った。
右手に。
布巾。
左手で。
椅子を引く。
ゆっくり。
音を立てないように。
慎重に。
ぎ……
竹流。
止まる。
床を見る。
動かない。
もう少し。
椅子を引く。
ぎぎ……
「……よし。」
布巾を構える。
「おいで……」
小声で。
「おいで……」
もちろん。
ゴキブリが。
素直に来るはずはない。
それでも。
呼んだ。
その頃。
居間。
黒沢圭。
片目だけ。
開けた。
「……」
物音。
ぎ……
少し間。
ぎぎ……
また。
物音。
黒沢は。
天井を見る。
まだ暗い。
時計を見る。
午前四時三十九分。
人間が。
活動する時間ではない。
ましてや。
椅子を引きずる時間でもない。
黒沢の頭は。
風邪薬のせいで。
少し。
ぼんやりしていた。
なお。
その風邪薬は。
本来。
飲む必要がなかった。
ぼんやりした頭で。
考える。
深夜。
不審な物音。
家の中。
誰かがいる。
導き出された答え。
――侵入者。
黒沢。
ゆっくり。
体を起こした。
周囲を見る。
武器。
何か。
武器になるもの。
手を伸ばす。
掴んだ。
スリッパ。
「……」
黒沢。
スリッパを見る。
もちろん。
犯罪は。
解決できない。
それでも。
持った。
今は。
これしかなかった。
黒沢は。
音を立てずに立ち上がる。
右手に。
スリッパ。
裸足で。
ゆっくり。
廊下へ。
一歩。
また一歩。
物音は。
キッチンから。
ぎ……
黒沢。
壁に背中をつける。
息を整える。
角の向こう。
誰かがいる。
スリッパを。
少しだけ。
高く構える。
そして。
勢いよく。
角を曲がった。
「あ――」
竹流。
振り返る。
「あ――」
二人。
固まった。
沈黙。
黒沢圭。
スリッパ装備。
竹流。
布巾装備。
午前四時四十分。
二人とも。
自分が。
何をしているのか。
よく分かっていなかった。
先に。
口を開いたのは。
竹流だった。
「……そのスリッパじゃ。」
一度。
スリッパを見る。
「誰も倒せませんよ。」
黒沢。
瞬きをする。
一回。
手の中を見る。
「……ですよね。」
少しだけ。
恥ずかしくなった。
スリッパを。
そっと下ろす。
「すみません。」
咳払い。
一つ。
「そういえば。」
「ちゃんと自己紹介をしていませんでしたね。」
こんな時間に。
こんな場所で。
こんな装備のまま。
それでも。
礼儀は。
大切だった。
黒沢は。
姿勢を正す。
「黒沢圭です。」
「よろしくお願いします。」
竹流も。
布巾を持ったまま。
ぺこり。
頭を下げる。
「竹流です。」
「竹流で大丈夫です。」
「よろしくお願いします。」
手を差し出す。
黒沢も。
握り返す。
握手。
まるで。
このキッチンに。
正体不明の何かが。
潜んでいないかのように。
二人は。
非常に。
礼儀正しかった。
黒沢は。
握手を終えると。
床を指さした。
「それで。」
「何があったんですか?」
竹流も。
床を見る。
「たぶん。」
「ゴキブリです。」
「ああ。」
黒沢。
納得。
一匹のゴキブリ。
午前四時。
確かに。
眠れなくなる理由としては。
十分だった。
「捕まえようとしてました。」
「なるほど。」
黒沢は。
真面目な顔で。
うなずいた。
二人とも。
本気だった。
その時。
竹流の視線が。
黒沢の肩の向こうで。
ぴたり。
止まった。
「……」
顔色が。
変わる。
さっきまでの眠気が。
一瞬で。
吹き飛んだ。
「……黒沢さん。」
「はい?」
「動かないでください。」
「え?」
「そのままです。」
「……」
黒沢。
固まる。
竹流の表情は。
冗談を言う顔ではなかった。
「見つけました?」
「……はい。」
「捕まえられそうですか?」
「いえ。」
少し。
間。
「それは。」
「難しいです。」
「逃げそうですか?」
「それも。」
「違います。」
黒沢。
少しだけ。
首をかしげる。
「じゃあ。」
「何が問題なんですか?」
竹流。
小さく。
息を吸う。
「……」
「思っていたより。」
「大きいです。」
「大きいゴキブリ?」
「はい。」
「もっと。」
「大きいです。」
「どれくらいですか?」
竹流。
答えない。
いや。
答えられない。
「……」
「かなり。」
「大きいです。」
黒沢は。
まだ。
ゴキブリの話をしていると。
信じていた。
「普通に言って大丈夫ですよ。」
「竹流くん。」
「……」
竹流。
固まる。
思い出した。
近所のおばさん。
黒猫。
そして。
春海。
この家には。
言ってはいけない。
言葉がある。
言えば。
終わる。
言わなければ。
もっと終わる。
竹流。
覚悟を決める。
ゆっくり。
口だけ動かした。
「ね……」
「ず……」
「み……」
黒沢。
目を細める。
「え?」
聞こえない。
竹流。
目を閉じた。
観念する。
そして。
誰にも聞こえないくらい。
小さな声で。
ささやいた。
「……ねずみ。」
沈黙。
一秒。
二秒。
三秒。
「……」
「……あれ?」
何も。
起きない。
「……」
「……あれ?」
何も。
起きない。
竹流。
瞬きをする。
一回。
二回。
「……」
助かった。
そう。
思った。
――場面転換。
春海。
ぐっすり。
眠っていた。
芽衣を抱きしめたまま。
すぅ。
すぅ。
平和。
とても。
平和。
その時。
廊下の向こう。
小さな声が。
聞こえた。
「……ねずみ。」
春海。
ぴくっ。
一秒。
「……」
がばぁっ!!
勢いよく。
飛び起きる。
「ねぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇずみぃぃぃぃぃぃーーーーーーー!!!!!!???」
家中に。
響いた。
竹流。
遠い目。
「……終わった。」
黒沢。
「えっ?」
まだ。
何も。
分かっていない。
芽衣。
片目だけ。
開ける。
「ん……?」
眠そうに。
春海を見る。
「どうしたの……?」
答える暇は。
なかった。
ばんっ!!
障子が。
大きく揺れる。
「!?」
どぉぉぉんっ!!
黒い影が。
一直線に。
家の中へ。
突っ込んできた。
近所の。
黒猫だった。
速い。
とにかく。
速い。
ほとんど。
ミサイル。
障子を突き破り。
畳の上を。
どりゃぁぁぁぁぁっ!!
という勢いで。
一直線。
目。
完全に。
狩人。
春海。
反射で。
芽衣を抱き上げる。
「芽衣ちゃん!!」
「私が守るからねぇぇぇぇ!!」
芽衣。
こてん。
首をかしげる。
「うん。」
「お願い。」
全幅の信頼だった。
その頃。
キッチンでは。
ねずみ。
全力疾走。
黒猫。
全力追跡。
椅子。
倒れる。
鍋。
転がる。
がたんっ!!
ごろんっ!!
黒沢。
目を回しそうだった。
「何を捕まえればいいんですか!!」
廊下の向こう。
春海の声。
「捕まえられる方ぉぉぉぉぉ!!」
「どっちでもいいからぁぁぁ!!」
竹流。
思わず。
叫ぶ。
「春海さんも!!」
「早く来てくださいよぉ!!」
春海は。
芽衣を。
そっと。
食器棚の上へ。
ひょいっ。
「ここなら。」
「安全だからね。」
芽衣。
ちょこん。
座る。
「うん。」
全然。
怖がっていない。
いや。
状況を。
よく分かっていなかった。
春海。
ゆっくり。
振り返る。
深呼吸。
一回。
「……」
もう一回。
「……」
真剣な顔。
「芽衣ちゃん。」
「もし。」
「私が帰ってこなかったら……」
芽衣。
間髪入れず。
「帰ってくるよ。」
「……」
春海。
一瞬。
止まる。
でも。
止まらない。
「それでも!」
「私のお花の世話をお願いね!」
芽衣。
きょとん。
「お花?」
少し考える。
「ないよ?」
「じゃあ!!」
春海。
勢いよく。
両手を広げる。
「買ってぇぇぇぇぇ!!」
「私の記念にぃぃぃぃ!!」
芽衣。
こくっ。
「分かった。」
もちろん。
分かっていない。
春海。
静かに。
壁際へ歩く。
一歩。
また一歩。
「……」
すっ。
手を伸ばす。
そこにあった。
一本の。
ほうき。
ぎゅっ。
握る。
ゆっくり。
持ち上げる。
「……」
完全に。
伝説の剣だった。
春海。
構える。
「この家はぁぁぁぁ!!」
「私が守るぅぅぅぅぅ!!」
その頃。
キッチン。
ねずみ。
ぴょんっ。
冷蔵庫の横へ。
黒猫。
だぁぁぁぁっ!!
一直線。
黒沢。
「猫!!」
「待ってください!!」
飛びつく。
違った。
掴んだのは。
布巾。
「違いました!!」
勢い余る。
よろっ。
「あっ。」
危ない。
竹流。
「リビングだけは!!」
「行かせないでください!!」
その瞬間。
しゃああああっ!!
廊下の奥から。
春海。
滑るように。
登場。
ほうきを構えたまま。
「どいてぇぇぇぇぇぇ!!」
「人事だけど!!」
一拍。
胸を張る。
「緊急対応はできますぅぅぅぅ!!」
びしっ!!
ほうきを構える。
黒猫。
ぴたっ。
止まる。
ねずみ。
ぴたっ。
止まる。
黒沢。
目を見開く。
「大沢さん!!」
「危な――」
――その瞬間。
時間が。
止まった。
春海。
ほうきを構える。
ねずみ。
動く。
黒猫。
動く。
もちろん。
春海も。
動く。
「そこぉぉぉぉぉ!!」
ぶんっ!!
ほうきが。
勢いよく。
空を切る。
ねずみ。
ひょいっ。
避ける。
黒猫も。
ひょいっ。
避ける。
完璧だった。
春海以外は。
「えぇぇぇぇぇぇぇ!?」
勢い余って。
くるっ。
一回転。
足元。
ぐらっ。
「わっ……!」
黒沢。
反射で。
腕を伸ばす。
がしっ。
春海の腕を掴む。
ぎりぎり。
転倒回避。
「ありがとうございます!」
「どういたしまして!」
返事だけは。
爽やかだった。
その横を。
ねずみ。
しゅっ。
普通に通過。
「あっ!!」
竹流。
慌てて。
布巾を投げる。
ふわっ。
とても。
優しい軌道。
当然。
当たらない。
代わりに。
黒沢の頭へ。
ぺたっ。
「……」
「すみません!!」
黒沢。
布巾を外す。
「大丈夫です。」
少し考える。
「もう。」
「慣れてきました。」
「慣れないでください!!」
その瞬間。
黒猫。
冷蔵庫の横を。
どんっ!!
蹴る。
勢いそのまま。
流し台へ。
ぴょんっ!!
さらに。
食器棚へ。
ぴょんっ!!
「えっ。」
春海。
思わず。
見上げる。
「そこ行く!?」
黒沢も。
つられて。
見上げる。
「猫って。」
「そんな動き。」
「するんですか?」
竹流。
即答。
「今は!!」
「考えてる場合じゃありません!!」
その頃。
食器棚の上。
芽衣。
足を。
ぶらぶら。
「……」
「すごい。」
完全に。
映画だった。
ねずみ。
電子レンジの裏へ。
ささっ。
消える。
黒猫。
ぴたり。
止まる。
じぃぃぃぃぃ。
狙っている。
静寂。
春海。
ごくり。
竹流。
ごくり。
黒沢も。
つられて。
ごくり。
一秒。
二秒。
三秒。
黒猫。
飛ぶ。
「今ぁぁぁぁぁぁ!!」
春海も。
飛ぶ。
「えっ。」
黒沢も。
飛ぶ。
「なんで私も!?」
完全に。
流れだった。
竹流だけ。
その場に残る。
「えぇぇぇぇぇぇ!?」
どたん!!
がたん!!
ばぁん!!
何かが倒れる。
何かが転がる。
誰かが叫ぶ。
そして――
静寂。
静かだった。
誰も。
動かない。
春海。
ほうきを抱えたまま。
床に座っている。
黒沢。
少し離れた場所で。
ぽかん。
竹流。
一人だけ。
きょろきょろ。
「……」
「あれ?」
ねずみは。
どこへ。
黒猫も。
どこへ。
「逃げた……?」
その時。
上から。
「にゃぁ。」
全員。
ゆっくり。
見上げた。
そこには。
食器棚の上。
黒猫が。
ちょこん。
座っていた。
前足の間には。
ねずみ。
ぴくりとも。
動かない。
「……」
「……」
「……」
春海。
ぽつり。
「終わった?」
黒沢。
小さく。
うなずく。
「……たぶん。」
黒猫。
満足そうに。
しっぽを。
ふわり。
一回。
揺らした。
任務完了。
そんな顔だった。
春海。
力が抜ける。
「はぁぁぁぁ……」
その場に。
ぺたん。
座り込む。
ほうきも。
ころん。
床へ。
「助かったぁ……」
竹流。
苦笑い。
「最初から。」
「猫に任せればよかったですね。」
黒沢。
真顔で。
うなずく。
「ええ。」
「我々。」
少し考える。
「必要ありませんでしたね。」
「言わないでくださいよ……」
竹流。
思わず。
肩を落とす。
食器棚の上。
芽衣。
黒猫を見る。
にこっ。
「えらいね。」
黒猫。
「にゃ。」
返事までした。
春海。
両手を合わせる。
「ありがとうぉぉぉ……」
さっきまで。
家に突っ込んできた相手とは。
思えないくらい。
感謝していた。
黒猫は。
そんなことなど。
気にしない。
ねずみをくわえ。
くるり。
そのまま。
開いた障子から。
ひらり。
夜の中へ。
帰っていった。
残されたのは。
静かな家。
倒れた椅子。
転がる鍋。
散らばった布巾。
一本の。
ほうき。
そして。
しばらく。
誰も。
動かなかった。
眠気が。
ようやく。
戻ってきたからだ。
春海。
ぼそり。
「……もう。」
「朝まで起きてようかな。」
竹流。
首を振る。
「あと二時間もしないで。」
「朝ですよ。」
「……」
春海。
天井を見上げる。
「人生って。」
「大変だねぇ……」
誰も。
否定しなかった。
その日。
近所では。
一匹の黒猫が。
大仕事をしたらしい。
そんな噂だけが。
静かに。
広まっていた。
もちろん。
当の本人は。
魚でももらえるか。
それしか。
考えていなかった。
第七十三話 完
読んでいただき、本当にありがとうございます~!!♡♡
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(´▽`)
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また次回もよろしくお願いします~!!♡♡




