第70話 「あーん」の法則
【事件】午前二時、黒沢圭が大沢ハルミの新説に巻き込まれました。
――「『あーん』する時って、一緒に口を開ける人と開けない人がいるんですよ!」
ようやく終わった残業。
ようやく始まった晩ご飯。
……のはずが。
気付けば始まっていたのは、
大沢ハルミによる
"あーん理論"の研究発表。
今日も黒沢は、
大沢ハルミという現象に、
少しずつ慣れていきます。
黒沢のキッチン。
狭い。
本当に。
狭い。
でも。
そんなことは。
大沢には。
関係なかった。
気が付けば。
そこはもう。
即席料理フェスティバル。
最初に聞こえてきたのは――
ふん♪
ふふん♪
小さな鼻歌。
にんにく。
刻む。
トントントントン。
次は。
玉ねぎ。
目。
少し痛い。
涙。
少し出る。
それでも。
楽しそう。
「ふんふふ〜ん♪」
一方。
黒沢。
仕事。
書く。
止まる。
書類確認。
プリンター。
ウィィィィン……
立つ。
紙を取る。
ホチキス。
席へ戻る。
付箋。
一枚。
貼る。
ため息。
その頃。
大沢。
第二段階。
卵。
小麦粉。
ボウルへ。
ぽちゃん。
ぽちゃん。
「よし。」
「きっとうまくいく。」
しゃかしゃか。
混ぜる。
野菜。
切る。
また。
鼻歌。
ふん♪
ふふ〜ん♪
ここまでは。
普通だった。
でも――
歌い始めた。
ポルトガル語で。
最初は。
小さく。
少しずつ。
リズムが。
乗ってくる。
鍋を混ぜる。
小さく。
ステップ。
くるっ。
くるっ。
調味料。
一つ。
また一つ。
さらに。
もう一つ。
黒沢。
仕事に。
集中しようとする。
でも。
耳に入る。
歌。
何を歌っているのか。
全然。
分からない。
でも。
リズムは。
悪くない。
ふと。
キッチンを見る。
そして。
気付いた。
「…………」
キッチン。
いっぱいだった。
調理台。
荷物。
開いた袋。
きれいに並ぶ。
調味料。
掃除用品。
モップ。
ほうき。
いい香りの。
スプレー。
そして――
「……」
「踏み台まで。」
「持ってきたんですか。」
そう。
折りたたみ式。
小さな。
踏み台。
広げれば。
ちょうどいい。
物置になる。
大沢。
片耳だけ。
イヤホン。
歌って。
混ぜて。
味見して。
少し踊る。
深夜一時半。
会社の上司の家。
なのに。
まるで。
自分の家みたいだった。
黒沢。
一度。
瞬きをして。
何も言わず。
また。
仕事へ戻った。
部屋には。
小さく。
ブラジルの音楽だけが。
流れていた。
しばらくして――
黒沢。
仕事。
終わった。
大沢も。
ちょうど。
最後の盛り付け。
くるっ。
振り向く。
満面の笑み。
「できました!」
「よかったら。」
「よそいましょうか?」
「お願いします。」
大沢。
「はーい!」
お皿。
一枚。
まずは。
ご飯。
よそう。
まだ。
よそう。
もう少し。
よそう。
黒沢。
「……」
山だった。
次。
魚。
一切れ。
二切れ。
三切れ。
さらに。
大きなお肉。
どーん。
「よし!」
「完成です!」
まるで。
賞状でも。
渡すみたいに。
両手で。
差し出した。
黒沢。
受け取る。
少しだけ。
目を丸くした。
「……」
「おいしそうですね。」
大沢も。
向かいへ。
座る。
黒沢。
一口。
ご飯を。
食べる。
「……」
止まる。
大沢。
びくっ。
「このご飯。」
「少し。」
「いつもと違いますね。」
その瞬間。
大沢の頭。
かちっ。
止まる。
(しまった。)
(考えてなかった。)
(ブラジル風のご飯……。)
(作っちゃった……。)
にんにく。
玉ねぎ。
炒めて。
香りを出して。
日本のご飯とは。
全然。
違う。
大沢。
口元を押さえる。
「あっ!」
「ご、ごめんなさい!」
「夢中で作ってたら……」
「いつもの癖で……」
黒沢。
少しだけ。
笑う。
「大丈夫です。」
「すごく。」
「おいしそうですよ。」
大沢。
ぱあっ。
一瞬で。
復活。
黒沢。
もう一口。
食べる。
その間――
大沢。
じーーーっ。
見ていた。
黒沢。
少し。
緊張。
(……)
(なんで。)
(そんなに。)
(見てるんだ。)
(ちゃんと噛もう。)
(ご飯……。)
(顔についてないよな……。)
もう一口。
食べる。
まだ。
見られている。
そして――
「あっ!!」
大沢。
立ち上がる。
黒沢。
びくっ。
箸。
止まる。
(まさか。)
(何か。)
忘れてた……?)
「よかった!」
「これも作ったんです!」
戻ってきた。
お皿。
いっぱい。
色鮮やかな。
野菜。
いい香り。
黒沢。
少し。
笑う。
「野菜なのに……」
「おいしそうですね。」
「えへへ。」
大沢。
照れる。
小さなテーブル。
もう。
限界だった。
大きなお皿。
二つ。
野菜。
書類。
付箋。
ペン。
置く場所。
ほとんど。
ない。
大沢。
また。
黒沢を見る。
黒沢。
野菜を。
一口。
食べる。
しゃくっ。
ゆっくり。
噛む。
少しだけ。
目を見開いた。
「……」
「これも。」
「おいしいです。」
「本当ですか!?」
「はい。」
「このご飯も。」
「初めて食べました。」
「でも。」
「好きです。」
大沢。
顔いっぱい。
笑顔。
「よかったぁ……!」
胸をなで下ろす。
「子どもたちも。」
「このご飯。」
「大好きなんです。」
黒沢。
少し笑う。
魚を。
ほぐしながら。
聞いた。
「家では。」
「どうですか。」
「今日は。」
「みんな。」
「緊張してますか?」
その一言で――
大沢。
完全に。
"お母さんモード"
起動。
「大丈夫です!」
「芽衣ちゃん!」
「ぐらぐらの歯も!」
「全然怖がらなくなったんですよ!」
「私だったら。」
「絶対無理です!」
「それに!」
「最近は!」
「新しい野菜が届くたびに!」
「畑へ行くようになって!」
黒沢。
くすっ。
少しだけ。
笑う。
「そうですか。」
「じゃあ。」
「浩さんも。」
「元気なんですね。」
大沢。
ぱちっ。
瞬き。
「えっ!」
「覚えてるんですか!?」
「もちろん。」
「昔。」
「数学の先生に。」
「点数をもらいに。」
「よく畑へ行ってましたよね。」
大沢。
「ち、違います!」
「点数のためじゃありません!」
黒沢。
じーっ。
「本当に?」
「ほ、本当です!」
「えっと……」
「畑が好きで……」
「それで。」
「たまたま。」
「点数も上がって……」
「…………」
黒沢。
「なるほど。」
「たまたま。」
「はい!」
「たまたまです!」
少しだけ。
昔話。
数学の先生。
そのお父さん。
畑。
学校帰り。
大沢。
毎日のように。
手伝っていた。
先生のお母さんは。
いつも。
言っていた。
「あんたより。」
「この子の方が。」
「よっぽど働いてるんだから。」
「変な点数つけたら。」
「許さないよ。」
結果。
数学。
赤点。
一度も。
なし。
「別に。」
「頼んだこと。」
「ないんですけどね。」
大沢。
困ったように。
笑う。
黒沢も。
つられて。
笑った。
笑い声が。
少しずつ。
落ち着く。
そして。
また。
静かな食卓。
……のはずだった。
黒沢。
ふと。
気付く。
大沢。
まだ。
自分のお皿を。
見ている。
「……」
「大沢さん。」
「もしかして。」
「お腹。」
「空いてます?」
「えっ?」
「い、いえ!」
「全然!」
「そんなこと――」
ぐぅぅぅぅ……
静寂。
黒沢。
眉が。
少しだけ。
上がる。
大沢。
観念。
「……空いてます。」
黒沢。
小さく。
笑う。
スプーンを持つ。
ご飯を。
一口。
すくう。
そのまま。
大沢の方へ。
「はい。」
「あーん。」
大沢。
ぱくっ。
「ん~♪」
幸せそう。
黒沢。
少しだけ。
驚く。
「……?」
「どうしました?」
大沢。
真面目な顔。
本当に。
真面目。
「黒沢さん。」
「一つ。」
気付いたことがあるんです。」
黒沢。
嫌な予感。
「……」
「聞くの。」
「少し怖いですね。」
大沢。
うなずく。
「人に。」
「あーんってして。」
「食べさせる時。」
「黒沢さん。」
「口。」
「開けないんですね。」
沈黙。
黒沢。
停止。
「…………」
「はい?」
大沢。
続ける。
「この前。」
「芽衣ちゃんに。」
「あーんってした時。」
「私も。」
「一緒に。」
「口を開けてたんです。」
「そしたら。」
「健くんが。」
『それ変だから。』
って。」
「言うんですよ。」
「だから。」
「気になって。」
「最近。」
「観察してたんです。」
「人によって。」
「開ける人と。」
「開けない人が。」
「いるんですよ!」
「黒沢さんは。」
「開けない派です!」
静寂。
黒沢。
じーーーっ。
大沢を見る。
まるで。
新種の生き物でも。
発見したような目。
数秒後。
ぽつり。
「……」
「やっぱり。」
「大沢さんたち。」
「ちょっと変です。」
大沢。
少し考える。
「そうかもしれません!」
あっさり。
認めた。
黒沢。
思わず。
吹き出す。
「ふっ……。」
笑った。
その夜。
久しぶりに。
心から。
笑った。
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