理論派軍師の恋愛オーバーロード・デイ
黄昏の残滓が、シシリス大学の聳え立つゴシック様式の尖塔へと重々しく降り注いでいた。
数世紀の歴史を刻むこの古き学府は、夕焼けの残光の中で、どこか病的なまでに荘厳で冷ややかな佇まいを見せている。キャンパスを構成する建築群は、粗く斑模様を描く灰白の大理石で組み上げられ、夕日が投げかける高いアーチと石柱の影は極めて長く、細く伸びていた。それはまるで大地を貫く巨大な指針のように、学園全体を昼と夜が交錯する混沌の境界に縫い止めているかのようだった。
微かに冷気を帯びた夕風が中庭を吹き抜け、両脇に整然と刈り込まれながらもどこか歪な枝ぶりの黒松を揺らして、乾いた擦過音を立てる。中央講堂へと続く長い石階段には、図書館上部に嵌め込まれた巨大な黄道十二星座のレリーフステンドグラスを透過した夕光が差し込み、冷たく薄暗い回廊の床に、濃密で砕け散った光斑を落としていた。――そして、それらの光の狭間において、本来なら十三番目の座が位置するはずの影だけが、一際深く昏い闇を湛えている。
誰もいない回廊の奥底で、重く遠い鐘の音が静かに鳴り響き、虚ろな石壁に幾重にも反響した。それはまるで、隔絶された異次元から染み出してきた溜息のようでもあった。
シシリス大学はこの瞬間、昼間の厳格さと秩序を脱ぎ捨て、この重たい残照に呑み込まれていた。忘れ去られた星群の下に佇む孤島のように、沈黙と抑圧を抱えながら、静かに、だが確実に最後の微光を喰らい尽くし、夜と秘密が共に訪れるのをじっと待っている。
涼やかな風が並木道を吹き抜け、セリアとカレナは左右に並んで歩いていた。
セリアは無意識に指先を持ち上げ、微かに赤く腫れ上がった自身の唇にそっと触れた。その視線は焦点を結ばないまま、夕闇へと沈みゆくシシリス大学の景色をぼんやりと彷徨っている。
彼女にとって、先ほどのネルの口づけはあまりにも唐突で、あまりにも理不尽なものだった。敗北を喫したネルにとっては、ただ温もりを求めて縋り付いただけの気休めに過ぎなかったのかもしれない。けれど、セリアにとっては生まれて初めての経験だったのだ。――生々しく、混乱に満ち、そして焼けるような熱を帯びた、初めての感触。
「まだ、あのキスの余韻に浸っているのかしら?」
「ち、違います! そんなわけないでしょう!」
隣を歩くカレナがからかうように口を開く。だが、その瞳の奥には微かな冷徹さが走っていた。
着替えのために更衣室の扉を開けたとき、カレナが目にしたのは、まさにネルが執着めいた様子でセリアの唇から温もりを貪り奪っている光景だった。その一幕はあまりにも目障りで、瞳に突き刺さる鋭利な針のように、今すぐにでも駆け寄ってネルを殴り飛ばしてやりたい衝動に駆られたほどだった。
模擬戦で一度ネルを叩き潰せたのだから、何度だってあの傲慢な女を屈服させられる――それは、セリアの前であっても同じことだ。
胸の内に渦巻く嫉妬を、カレナは無理やり押し殺した。セリアはまだ自分の恋人ですらなく、関係を結んでもいないのに、勝手に嫉妬するなど滑稽でしかない。
彼女はふうと息を吐き出し、わざとらしく軽やかな調子で言った。
「ねえ、セリア。貴女はこの世界や社会を変えたいと思ったことはある?」
「社会を……変える? どうして急にそんなお話を?」
セリアは目を丸くした。カレナの突飛な発言に、どことなく違和感を覚えたからだ。
夕日の最後の残光が、真夏の暮色の中へと優しく溶けてゆく。
空の彼方に広がる夕焼けは、まるで滲んだピーチとスモーキーパープルのように、キャンパス全体を気だるく朧げな光の輪で包み込んでいた。大気には陽に温められた草花の香りと、次第に熱を失っていく土の匂いが漂い、そよ風がセリアの耳元の髪を揺らして柔らかな擽ったさを残す。
本来なら心を奪われるほどに穏やかな夏の夕暮れ。しかし、カレナの放った突拍子のない問いかけによって、この静けさはかえって嵐の前触れのような不穏さを孕んでいた。
「先輩……何か企んでいらっしゃるのですか?」
セリアは小声で尋ねた。カレナが強大な権力を持つ政治の名門出身であることは知っている。たとえ突飛で大仰な問いだとしても、彼女のような高みに立つ人間ならば、現体制の歪みを見抜き、世界を革新したいという野心抱いていても不思議ではない。
けれど、セリアにとって、この社会は本当にそれほど酷いものなのだろうか。
テクノロジーの進歩によって、最低限の生活は保障されている。何より、人類と知性機械の対立が激化する中で、人々の間にはある種の結束が生まれていた。セリアのように操縦記録が悲惨で笑い者にされている劣等生であっても、直接的な暴力を振るわれたり傷つけられたりすることはない。なぜなら、どれほど無能であっても、同じ「人類」であること自体が、この過酷な時代における最低限の免罪符だからだ。
キャンパスや街を歩けば嘲笑や奇異の視線に晒されるが、それでも日常は何事もなく続いていく。何一つ持たないセリアにとって、この「完全に見捨てられてはいない」という現状こそが、社会が施してくれるささやかな温情のように思えた。
「セリア……貴女、自分に向けられる悪意が何ともないの?」
「悪意……ですか?」
カレナは横を向き、セリアをじっと見つめた。その瞳の奥には名状しがたい感情が渦巻いており、セリアが嘲笑されていることに憤っているようでもあり、その従順さに苛立っているようでもあった。
セリアには分からなかった。カレナの憤りも、先ほどのネルの狂おしい口づけも、彼女の理解の範疇を超えている。
この広大で冷酷なシシリス大学の中で、彼女がかろうじて接点を持つことができたのはこの二人だけだ。片や昨日連絡先を交換したばかりの、遥か雲の上のエリート先輩。片や自分とは半分の血を分けた、名ばかりの妹。
そもそも、自分のような人間が、あの眩い二連星に関わるべきではないのだ。
機械兵装の適性値だけで人間の価値と生死が決まるこの残酷な時代において、劣等生である自分と彼女たちとの間には、あまりにも絶望的な格差が存在しているのだから。
セリアは再び震える指先を持ち上げ、柔らかくも腫れぼったい唇にそっと触れた。
彼女には、この社会のどこが壊れていて変革を必要としているのか分からない。ただ、カレナの考えを尊重したいとは思っている――彼女の野心が、「反乱軍」という深淵に踏み込まない限りは。
だが、幼い頃から恐ろしいほどに当たるセリアの直感が、今まさに胸の内で激しく警鐘を鳴らしていた。
氷のように冷たく刺す予感が、はっきりと告げている。目の前の完璧な先輩は、いつか人類を裏切るのだと。
胸が万力で締め付けられるように痛む。セリアはカレナの横顔を見上げた。心の奥底に秘め、決して陽の目を見ることのなかったこの淡い想いは、何年もの間抱き続けてきたものだ。それなのに……咲くことすら許されなかったこの恋心は、陣営の対立と裏切りの前で、芽吹く間もなく散ってしまうのだろうか。
自分にはカレナの背信に付き従うことなどできないし、その資格すらない。
兵装の操縦技術すら話にならない自分が、反逆の場に立てるはずもないのだ。酷く惨めで滑稽な現実――疑心暗鬼が渦巻く今の人類社会において、誰もが反乱軍の潜入工作員である可能性がある中で、唯一セリア・フォン・ローゼンバーグだけは「絶対に裏切るはずがない」と誰もが確信している。
あまりにも弱く、あまりにも無能だからだ。周囲が嘲笑の中に残すわずかな寛容さも、彼女が脅威にすらなり得ないという侮蔑の裏返しに過ぎない。
セリアの瞳から光が失われていくのを見て、カレナは胸を衝かれ、所在なげに自身の専用車へと歩き出した。
だが、ドアノブに手をかける寸前、彼女の足がピタリと止まった。
カレナは振り返らないまま、深まる暮色の中に背中を向けた状態で、セリアにだけ届くような静かな声で紡いだ。
「もし……いつか私が道を誤ったら、セリアは私を止めてくれる?」
その奇妙な問いかけは、セリアの最悪の推測を裏付ける決定打のように思えた。やはりカレナはすでに知性機械と接触し、手を貸す約束を交わしてしまったのではないか。
けれど、誰もが不自由なく暮らすこの社会で、武力衝突を起こしてまで変えたいものとは一体何なのだろう。自分と異なる者をすべて排除するためなのだろうか。
「私には……先輩を止める力なんてありませんよ」
セリアはうつむき、絞り出すように本音を漏らした。
「先輩は、あまりにも優秀すぎますから」
自虐ではなく、紛れもない現実だ。仮に旧時代の伝説的な機体を与えられたところで、自分の腕前では戦場の的になるのが関の山。ネルの駆る『獅子座』すら正面から打ち倒すカレナを止めるなど、荒唐無稽な夢物語だ。
「……まさか、私を止める方法が兵装による戦闘だけだとでも思っているの?」
「え……?」
セリアは呆然とした。武力によらない制止――富も地位も実力も兼ね備えたこの完璧な先輩を、自分のような人間が一体どうやって引き止められるというのか。
振り返ったカレナは、セリアの白紙のように無知で茫然とした表情を目にして、胸の奥から湧き上がるもどかしさと焦燥に苛まれた。
どうしてこの子は、これほどまでに鈍感なのだろう。普段あれほど恋愛小説を読み漁っているくせに、いざ実戦となるとまるで役に立たない。本当に見掛け倒しの読書家だ。
カレナはもう我慢できなかった。靴音を響かせて大股で歩み寄ると、セリアが反応する間すら与えず、その華奢な肩を引き寄せ、覆いかぶさるようにして、ネルと同じように強引にその柔らかな唇を塞いだ。
「ん……っ!」
夕日の最後の残照が、重なり合う二人の髪の間で弾け散る。
ネルのような敗北の鬱屈をぶつける乱暴なキスとは異なり、カレナの口づけは強引でありながらも、その奥底には胸が痛むほどの切なさと執着が込められていた。微かに冷たく腫れた唇を丁寧に甘噛みし、セリアの持つ甘さと動揺を余すところなく味わい尽くそうとする。
「セリア……」
短く息を継ぐ合間に、カレナの熱い吐息がセリアの火照った頬を撫で、低く掠れた声でその名を呼んだ。
カレナの胸には苦い痛みが広がっていた。セリアの鈍さが染み付いた劣等感によるものだと知っている。そして、自分が後戻りのできない茨の道へ進もうとしていることも。
けれど、この吐息混じりのキスを通じて、この鈍感な少女にどうしても分からせたかった。――この残酷な世界において、本当に生殺与奪の権を握り、自分を深淵の淵から引き戻すことのできる唯一の存在が、最初からセリアただ一人なのだということを。
夜の帳が完全に下り、並木道の足元灯が淡く灯って、密着する二人の輪郭を曖昧な琥珀色に染め上げる。
セリアの頭の中は真っ白になっていた。
カレナの放つ気配はあまりにも鮮烈で、冷ややかなウッディの香りと熱情が混ざり合い、彼女の全感覚を支配していく。耳元の柔らかな髪に指を滑り込ませ、後頭部を引き寄せるカレナの手のひらの熱さが、セリアの逃げ場を完全に塞いでいた。
「ん……、ふ……」
細く恥じらいを含んだ吐息が、重なり合う唇の隙間に吸い込まれていく。
カレナのキスは次第に熱を帯び、深く、どこまでも綿密なものへと変わっていった。赤く腫れた唇を、まるで壊れやすい宝物でも愛でるかのように愛おしげに吸い上げ、唇を擦り合わせるたびに甘美な痺れが全身を駆け巡る。
大切にされ、激しく求められているという実感が神経を伝い、セリアは膝から力が抜けていくのを感じた。身を預けるように、無意識のうちにカレナの制服の胸元をぎゅっと握りしめる。
腕の中の少女の不器用な反応と微かな震えを感じ取り、カレナの呼吸はさらに乱れ、熱を帯びていく。
わずかに顔を傾け、さらに深く口づけを重ねた。微かに開いた唇の輪郭を薄い唇でなぞり、ゼロ距離で混ざり合う湿った吐息の中で、どちらの心臓が激しく跳ねているのかすら判別がつかない。
「セリア……」
カレナは掠れた声で名を呼び、再びその唇を奪った。
それは独占欲であると同時に、音のない溺水であり、救いを求める悲鳴のようでもあった。カレナは伏せた睫毛を微かに震わせながら、すべての不安と罪悪感、そして破滅への覚悟を、祈るような口づけへと変えていく。
どれほどの時間が流れただろうか。冷たさを増した夜風が二人の火照った頬を撫で、ようやく窒息しそうな陶酔から現実へと引き戻された。
カレナは名残惜しそうに唇を離したが、すぐには身を引かなかった。
濡れた唇でセリアの口角に最後の一際優しいキスを落とすと、二人は額を重ね合わせ、鼻先が触れ合うほどの距離で、情欲に潤んだ互いの瞳を見つめ合った。
「……本当に、どうしようもないバカね」
カレナは低く囁き、紅潮したセリアの唇を慈しむように指先で撫でた後、ゆっくりとその身体を解放した。
指先がその温もりから離れた瞬間、カレナの瞳にあった脆さは一瞬で掻き消え、いつもの冷徹で高慢な仮面が被せられる。彼女は羞恥で真っ赤に染まったセリアの顔を見ることなく、車に乗り込み、深い夜の闇の中へと走り去っていった。
取り残されたセリアは、遠ざかるテールランプを呆然と見送り、抜けた風船のように力なくトボトボと家路についた。
道中、すれ違う人々の視線がいつも以上に集まっているような気がしたが、もともと学園の「有名人(落ちこぼれ)」である自分が見世物になるのは日常茶飯事だ。頭の中が混乱でパンクしていたこともあり、気にする余裕もなかった。
亡霊のように玄関ドアを開け、気怠そうにダイニングテーブルの椅子へと倒れ込む。
そういえば、今日はまともな食事を一口も口にしていなかった。ネルからの不意打ちのキスに、カレナ先輩からの熱烈な抱擁――押し寄せる情報量が多すぎて、セリアの脳内プロセッサは完全に処理落ち(キャパオーバー)を起こしていた。
無数の恋愛小説を読破してきたセリアは、実戦経験こそ皆無なものの、自他共に認める「理論派軍師」を自負していたはずだった。
だが問題は、今日一日で自分を組み敷いてキスをしてきた相手が、いずれも名門の血を引く超一流のエリートたちだということだ。おまけにネルとは半分血が繋がっている。そんな二人が同時に自分に想いを寄せるなど、転生小説の主人公でもあり得ない。
創作は創作、現実は現実だ。小説の主人公のように努力で救世主になれるなら苦労はしない。現在の技術で治せない自身の脳波同調障害を克服するには、「脳みそを丸ごと交換する」くらいしか手段がないのだから。
そんな馬鹿げた考えに苦笑いを浮かべた瞬間、綺麗な瞳からポロポロと涙がこぼれ落ちた。
「セリア? うちの可愛いお姫様が帰ってきたのかい?」
台所で物音を聞きつけたエルヴィンが、温め直した料理を手に慌てて飛び出してきた。だが、テーブルの前に座る娘の姿を見た瞬間、持っていたお盆を取り落としそうになった。
彼が目にしたのは、涙目で俯く可憐な愛娘の……まるで破裂寸前の小ぶりなウインナーのように、パンパンに赤く腫れ上がった唇だったのだ。
「な、なんということだ! セリア! お前、昼にどれだけ辛い麻婆豆腐を食べたんだい!?」
エルヴィンの声が裏返る。世の終わりのような形相で引き出しから手鏡を取り出し、震える手で娘の前に差し出した。
「胃腸が弱いんだから辛いものは控えなさいって、あれほど言っただろう! こんなに腫れちゃって……!」
セリアはわけも分からず手鏡を受け取った。
そこに映っていたのは――目尻に涙を浮かべながら、唇だけが見事なまでに丸々と赤く肥大化した、あまりにも滑稽な自分の顔だった。
「…………っ?!」
三秒間のフリーズ。
次の瞬間、ダイニングルームに羞恥と絶望に満ちた悲鳴が木霊した。
「――きゃあああああああああああっっ!!」
……帰り道、道行く人々がなぜあんなにも自分を凝視していたのか。その恐るべき真相を、セリアはようやく理解したのだった。




