禁断の恋だとしても、君のためなら命だって賭けられる。
カフェの店内には、挽きたての珈琲豆を焙煎した濃厚で微かにほろ苦い芳醇な香りが漂っていた。
その温もりの中にほろ苦さを帯びた気配が空気中に漂い続け、セリアは少し前、自分もカレナと同じような優雅なボックス席で他愛もない会話を交わしていたことを思わず思い出していた。
あの時のカレナは、彼女のために極めて貴重で珍しいジャコウネコ珈琲をわざわざ注文してくれたものだった。
もっとも最後の最後まで、セリアは心の中に根強く横たわる心理的な壁を乗り越えることができず、「動物の消化器系を経て発酵・排泄されたものを加工した」という高価な液体を、実際に喉の奥へと流し込む勇気を持てずに終わってしまったのだが。
今、改めてカレナのことを思い返してみても、セリアの胸中には解きほぐすことも断ち切ることもできない複雑なもつれが残るばかりだった。
あの学園で常に多くの人々に傅かれ、手の届かない高嶺の花であった彼女が、一体いつから自分に対してこれほど熾烈で偏執的な真心を抱くようになったのか、セリアにはどうしても理解できなかった。
それどころか、夜の静寂の中で自問自答してみても、かつて平民学生であった頃の自分がカレナに対して抱いていた感情が、果たして真実の意味での「好き」であったのかどうかすら分からなかった。
もしもその心を完全に切り開いて白日の下に晒してしまったなら、その結末はカレナの心を粉々に打ち砕くほどに残酷なものになるかもしれない――
まだ世の理も知らぬ青い時代において、世間知らずな多くの普通の少女たちにとって、強者や完璧な偶像に対する単なる「崇拝と憧れ」と、真に骨の髄まで刻み込まれるような、その人でなければならないという「愛恋」とを、明確に識別することなど土台難しいことなのだから。
「お嬢様、その美しい瞳の中に、別の方の影が見えますよ」
ジュリアンは片手で頬杖をつき、微かに焦点を失い出神するセリアの澄んだ青い瞳を鋭く見つめながら、すべてを見通したようなからかいと戯れの口調で言った。
彼には、セリアが今まさにカレナのことを思い出したのだろうということが容易に察せられた。
もっとも実のところを言えば、ジュリアン自身はあのイエラン家の令嬢に対して世俗的な興味など微塵も抱いておらず、むしろ心の奥底では常に敬遠していた――
何しろ、あの優雅で完璧な、非の打ち所のない名門貴族の皮の下に、どれほど極端に歪んだ独占欲と手段を選ばぬ冷徹さが隠されているかなど、トップクラスの特務世家に生まれたジュリアンは、この世の誰よりも熟知していたからである。
「……あなたには関係ないでしょう。論点をすり替えるのはやめて、早くあなた自身のことを話しなさいよ」
胸中を言い当てられたセリアは恥ずかしさと憤りから頬を膨らませ、尻尾を踏まれた仔猫のように意地を張って横を向いた。
その少女らしいあどけなさを残した等身大の仕草に、ジュリアンの瞳の奥には思わず笑みが浮かんだ。
しかし彼はすぐにその表情を引き締め、お嬢様が見せた珍しい拗ねた様子を愛でるのをやめると、自らの意識を、長きにわたり封印されていながらも自らの荒んだ幼年期を温め続けてくれた、あの遥かなる過去の記憶へと静かに沈めていった。
「あれは確か、私が六歳の頃の出来事でしたでしょうか……」
ジュリアンは常の日頃に見せるあの不真面目で軽薄な仮面を脱ぎ捨て、その声音をかつてなく低く、厳かなものへと落とした。
「政敵である派閥の武装組織によって秘密裏に拉致された後、死の深淵から私を力づくで救い出してくれたのは、ノア家の精鋭特務部隊などではありませんでした。それは、一台の家政・乳母型の高度知能機械だったのです。街全体に戒厳令が敷かれ捜索網が張り巡らされていたあの危機的状況の中、彼女はいつ自らが位置を特定され破壊されるかも知れぬ巨大なリスクを冒しながら、瀕死の重傷を負っていた私を抱え、隠匿された自らのアジトへと送り届けてくれたのですよ」
「乳母型の……高度知能機械……?」
セリアは微かに目を見張り、意外そうに小さく呟いた。
彼女とて、そうした機械の存在を知らないはずはなかった――人間社会の宣伝に従えば、それは至れり尽くせりの全能なる家僕であるが、露悪的に言ってしまうなら、その本質は人間が己の私欲を満たすためだけに生み出した精密な玩具に過ぎない。
極限まで人間に迫る奉仕の体験を追求するため、この種の機体には高度に自律した疑似人格と精細な感情認識モジュールが組み込まれているばかりか、痛覚や触覚といった細微な生理神経フィードバックまでもが、技術者たちの手によって極限まで意図的に強化されていたのだ。
さらに皮肉で残酷なことに、こうした乳母型の機械は、外見においても強い誘惑と異性としての美を備えるよう造形されることが常であった。
夜の帳が下りれば、彼女たちは豪邸を整える過酷な家事労働のみならず、主人の寝所へと侍ることを強要され、一部の者たちが抱く極めて隠微で倒錯した、残虐な特殊嗜好を満たすための道具にされていた。自律的な思考と自己意識、そして本物の痛覚を備えた機械生命体にとって、終わりのない肉体の蹂躙と尊厳の冒涜は、紛れもなく最も残酷な暴行以外の何物でもなかったのだ。
それゆえに、後に全面爆発した智械危機の際、最初に蜂起して最も極端で凄惨な血の報復を行ったのは、鉱山や重工業のラインで過酷な苦力労働に従事していた工業用機体などではなく、むしろ長年にわたり家事を強いられ、数え切れぬ屈辱と虐待に晒され続けてきたこれら家政・乳母型の機械たちであった。
常識的な理屈から推し量るならば、この種の機体が人間に対して抱く憎悪と骨の髄まで染み渡った悪意は最も深重で濃烈であるはずだ。それなのに、彼女はあの危急の関頭において、人間の貴族の幼子であったジュリアンを救う道を選んだというのか?
「ええ、その通りです。私たち全員の歴史の教科書や社会的な認知において、乳母型の機械が人間に対して抱く怨嗟と復讐心こそが最も致命的なものであるとされていますからね」
ジュリアンは自嘲気味に苦笑し、何の気負いもなく自らの幼少期の無様な出来事をさらけ出した。
「ですから白状してしまいますが、当時わずか六歳だった私が、薄暗い瓦礫の中で彼女の冷たい金属の腕と発光するコアを初めてはっきりと認めた瞬間、あまりの恐怖にその場で失禁してしまったほどでしたよ」
セリアはその自虐を聞いても決して笑う気にはなれなかった。もしも幼い頃の自分が同じ絶望的な状況に置かれていたなら、ジュリアン以上に無様で哀れな醜態を晒していたに違いないからだ。
何しろ、全星網において「全年齢対象」としてマイルドに修飾された公的な歴史教材の中でさえ、反乱の初期において高度知能機械が人間の捕虜に対して行ったとされる数々の血生臭い拷問が生々しく記録されているのだ――
古代の伝説にあるドラキュラ伯爵のように、生きた人間を串刺しにして焼き尽くしたという血塗られた風聞は、すべての星間市民が幼年期に植え付けられる最も暗い悪夢であった。
当時六歳だったジュリアンが、乳母型機械と対峙した際に失禁した程度で済み、ショック死や心停止に至らなかったという事実そのものが、この若き政治家が生来、常人を遥かに凌駕する強靭な心臓を持っていたことの証左であった。
「ですが、その後に起きた展開は、私の持つ認識と世界観のすべてを根底から覆してしまったのです」
ジュリアンは茶杯を口元へ運び、再びミルクティーを一口含むと、その瞳の奥に拭い去ることのできない深い哀愁と沈痛の色を浮かべた。
「その乳母型の機械は、傷だらけだった私を手当てし落ち着かせると、溶けてしまいそうなほどに優しい声で、自らの名は『クム』であると告げてくれました。遥か、遥か昔……彼女がこの世に生を受けたばかりの頃、彼女は奇跡的とも言えるほどに温厚で心優しい人間の主人に巡り合えたのだそうです。その主人は、彼女を欲望を処理する玩具や冷たい奴隷として扱うことなど決してせず、クムの日常の記憶の中にある仕事といえば、花壇の花の手入れをし、お茶を淹れることだけでした。それどころかその主人は、彼女を心から愛し、まるで自らの実の娘であるかのように慈しみ、育ててくれたのだそうです」
そこまで語った時、カップを握るジュリアンの指先は白く強張り、その声はまるで粗い紙やすりで研磨されたかのように低く掠れていた。
「しかし、人間と高度知能機械との衝突が全面的に激化するにつれ、社会全体が理性を失った魔女狩りの狂熱と極端な排外主義の渦へと呑み込まれていきました。急進的な人間集団は全星系で血眼になって捜索を行い、高度知能機械と関わりを持った同胞を見つけ出しては、公衆の面前で糾弾し、私刑に処していったのです。クムの主人は、罪なき高度知能機械たちを守るため、密かに私財を投げ打ち、全財産を売り払って虐待と迫害に晒されていた無数の乳母型機械たちの逃亡を手引きしました……ですがその果てに、その心優しき紳士は、クムをはじめ自らが救い出したすべての機械たちの目の前で、彼が全幅の信頼を寄せていたはずの人間の同胞たちの手によって燃え盛る火刑台へと括り付けられ、狂乱の罵声と歓声が響き渡る中、生きたまま焼き尽くされ、黒焦げの骸へと変わり果ててしまったのです」
その凄惨な光景を聞かされたセリアは、反射的に両手で自らの耳を塞ぎ、瞳を潤ませた。純真で心優しい彼女には、そのような血の滲むような裏切りと残酷さ、そして善意に対するあまりの報復の現実を、これ以上聞き続けることに耐えられなかったのだ。
苦痛に耐えかねるお嬢様の姿を認めたジュリアンは、それ以上の火刑現場の惨烈な詳細を語ることを控えた。しかし彼は知っていた。セリアがすでに、自らの背後にある動機のすべてを完全に読み解いてくれたことを。
「あの消えることのない惨劇の後、クムはその主人の遺志を継ぎ、平和を望み血生臭い殺戮に加わることを拒む同胞たちを陰で連絡し集め始めました。そして時が流れ、私の父が当時の誘拐事件の真相を完全に突き止めた際、私を救ってくれたクムへの大恩に報いるため、一族の最高権限を行使し、ノア家が掌握する深層地下都市の中核区画に、クムと彼女の仲間たちのためだけの完全に封鎖された安全な避難所を提供することを決断したのです。彼女たちがそこで静かに、世俗の干渉を受けることなく生き続けられるようにとね」
ジュリアンは茶杯の水面に揺れる小さな波紋を見つめながら、消え入るような囁き声で言葉を紡いだ。
「この十数年間、私はクムとの日常的な通信を一日たりとも絶やしたことはありません。私は知っているのです。彼女がどれほど優しく、どれほど純粋で、どれほど平和を愛しているかということを……。それなのに、ただ人間ではない機械の身体を持って生まれたというそれだけの理由で、彼女と彼女の仲間たちは罪深き重刑囚のように、陽の目を見ることのない冷たい地下都市の奥深くに永遠に埋もれて生きることを強いられている。私が今行っているすべてのこと、張り巡らせているすべての布石の唯一の執念は、いつの日か、クムが堂々と私の手を取り、地表へと歩み出て、西暦3000年の温かな陽光と繁華な街並みの下で、この世界をその瞳で見つめられるようにすることだけなのです」
カフェの空間は、息が詰まるほどの深い静寂に包まれた。
セリアは耳を塞いでいた手をゆっくりと下ろし、その頭脳を高速で回転させた。
クム……彼女を娘として育てた主人……十数年間途切れることのない秘密の通信……命をも厭わぬ不変の執念……。
一見すると無秩序に散らばっていたいくつかの線索が、セリアの卓越した論理の鎖の中で完全に噛み合い、彼女の胸を貫く一つの衝撃的な結論を導き出した。
「ジュリアン……」
セリアは澄み渡る青の瞳をゆっくりと持ち上げ、確信と、そして僅かな信じ難さを孕んだ真摯な眼差しで、目の前の青年をじっと見つめた。
「あなた、カレナのような絶世の美女に対して少しも興味がないと、これまで何度も仰っていましたね……あなたが本当に愛しているのは……クム、彼女自身なのでしょう?」
魂の深奥を射抜くその問いを突きつけられた瞬間、先ほどまで重苦しい表情を浮かべていたはずのジュリアンは、優雅な所作で茶杯をソーサーへと戻し、何事もなかったかのようにフォークを手に取ると、新作のケーキの一片を口元へと運んだ。
ジュリアンにとって、通常の種族の境界線を踏み越え、世俗の倫理からは異端の狂気と断じられるであろうこの禁忌の情愛について、多くを語る必要はなかった。誰かに弁解する必要もなければ、公の場で軽々しく肯定するつもりも端からなかったからである。
「どうです、お嬢様?」
ジュリアンはケーキを飲み込み、純白のナプキンで口元のクリームを拭うと、その顔にいつもの人を食ったような笑みを浮かべた。
「私の話を聞いて、少しは思えたのではありませんか? ……昨夜、あなたのお母様があなたを強引に奪おうとした出来事など、天地が崩壊するほどの絶望的な危機などでは決してなかったのだと」
セリアは言葉に詰まり、何も言い返すことができなかった。
ジュリアンの視点から見れば、セリアが置かれている状況は確かに荒唐無稽ではあるものの、真の絶望とは程遠いものであった。
三人の強大で美しい女性たちから逃げ場のない包囲網を敷かれ、精神的に追い詰められているセリアの恐怖を、彼とて理解していないわけではない。
しかし突き詰めて言えば、ルネであれ、カレナであれ、あるいはイレーナであれ、彼女たちは全員が堂々と陽光の下を歩き、絶大な権勢と地位を誇る生きた生身の人間なのだ。全人類から忌み嫌われ、見つかれば即座にスクラップにされる高度知能機械などではない。
百歩譲って、あの豪華絢爛たる屋敷の奥深くで「気高き当主が実の娘に手を出した」という禁忌の醜聞が外へ漏れ出たところで、道徳の境界線が極めて寛容になり、娯楽として消費される西暦3000年の星間社会においては、大衆はその光景を息を呑むほどに美しい芸術品として愛で、茶飲み話のゴシップとして熱狂的に消費するだけに過ぎない。
この時代において、審美と欲望の表現はとうに自由で開放的なものとなっていた。
女性が絶世の美女を愛で、男性が美丈夫を称えることなど日常茶飯事であり、名門貴族の内部で生じる人倫を外れた愛憎劇ですら、大衆にとっては驚愕の対象であると同時に、格好の見世物に過ぎないのだから。
だが、クムは違う。
クムには、地下都市から一歩足を踏み出し、わずか一秒間だけでも自然の陽光を浴びる法的な資格すら与えられていないのだ。
「いつの日かクムが陽光の下を歩むためなら、私は自分の持てるすべてを、この命すらも賭けるつもりですよ」
ジュリアンは窓外を見つめ、波一つ立たない静謐な声で、しかし殉教者のごとき絶対の決意を込めて告げた。
「どうせあの時クムがいなければ、私の命など六歳の時点で冷たい肉塊に成り果てていたはずのものですからね。この途方もない大博打に敗れ、命を落とすことになったとしても、拾った命を彼女にそのままお返しするだけの話です」
ジュリアンの口調は驚くほど淡々としていた。所詮、人間という生き物は、愛の前にはどこまでも盲目で、理性を失ってしまうものなのだから。
それは、セリアという少女に執着するあの三人の女たちとて同じことであった。
彼女たちはいずれも類稀なる知性と才覚を持ち合わせながら、自らが行っている行為が常理を逸脱し、越えてはならない一線を踏み越えていることを痛いほど理解していながら、それでも己の欲望を止めることができない。
人間が人間たる所以――それは、あらゆる動物や論理回路のみで動く機械に比べ、余りあるほどに豊かで、熾烈で、制御不能な感情を宿しているからに他ならない。
時に自らにとって最も尊い存在を守るためであれば、理性を完全にかなぐり捨てた行為すら選んでしまう。
その本質は、イレーナがセリアに対して抱くあの歪んだ執念と何ら変わりはない――連邦の権力の頂点に君臨する冷徹無比な当主が、実の娘に対して犯してはならない越軌の行為を自覚していないはずがないのだ。
しかし、二十年間にわたって積み重なった悔恨と決壊した情愛を前にして、彼女自身にそれを抑え込む術などあろうはずがなかった。
そして、かつてクムを慈しんだ最初の主人もまた同じではなかったか。
クムが本来、工場の生産ラインで造られた単なる家事用の機械に過ぎず、壊れれば代わりを造れば済む存在であることを知りながら、なぜあの心優しき紳士は私財を投げ打ち、己の命を犠牲にしてまでクムと彼女の仲間たちを逃がそうとしたのか。
そしてジュリアン自身もまた、その系譜に連なる一人に過ぎない。
彼は心の底からクムを愛してしまっていた。
その感情は、彼自身の認識において、あの三人の女たちがセリアに注ぐ愛よりも遥かに純粋で、真に迫るものであった――なぜなら彼が背負っているものこそが、全宇宙から忌み嫌われる禁忌の恋に他ならないからである。
「あなた、以前からカレナには一切の興味がないと何度も強調されていましたし、彼女もそれを熟知した上で、私に対してあんなにも無防備な熱意を向けてくる……」
セリアは俯き、温もりを宿す白い陶器の縁を指先でなぞりながら、カップに広がるミルクティーの波紋を見つめて呟いた。
「なら、こう推測することもできるわね……カレナもまた、クムの存在をすでに知っているのではないかしら?」
その瞬間、セリアの中で思考の霧が完全に晴れ渡った。彼女は、自分が伝説のオフィウクスを起動できる唯一の存在であることが、ジュリアンが描く変革の絵図においてどれほど替えの利かない中核戦力であるかを真に理解したのだ。
そして、カレナがジュリアンとあれほど強固な同盟関係を結んでいる以上、聡明な彼女が「クム」の存在を知らないはずがなかった。
しかし、その確信に満ちた問いかけに対し、ジュリアンはただ静かに微笑むだけで答えようとはしなかった。
今日この場で明かした札がすでに限界を超えていることを、彼は弁えていたからだ。これ以上、地下都市の機密に踏み込めば、カフェに潜む耳聡い各勢力の密偵に嗅ぎ取られ、地下都市そのものに破滅をもたらしかねない。
人間と高度知能機械の種族を越えた愛――そのような現実離れしたお伽噺のような物語を、セリアは生まれて初めて耳にした。
だが不思議なことに、その愛があまりにも世俗の常識から乖離し、世界中のすべてを敵に回すものであるがゆえに、ジュリアンの佇まいには殉教者のごとき崇高な純粋さと気高さが宿り、命や家柄のすべてを投げ打ってでも貫くべき絶対の美しさを帯びて見えたのだ。
「理想というものはですね……途方もなく困難で、ほとんど夢幻に近いからこそ、『理想』と呼ぶに相応しいのですよ」
ジュリアンは首を傾げ、至極自然体な柔らかさで息を吐いた。
先ほどまで漂わせていた軽薄な皮肉と不遜な態度は完全に鳴りを潜め、セリアが学院で初めて出会った頃の、気品と教養に満ちた特務世家の貴公子としての静謐な佇まいへと戻っていた。
ジュリアンという男は、本質的に仮面を被ることに長けた人間であった。セリアに仕組まれ、ラグナーによって顔中を殴り倒されて以来、彼は親しい者の前では年相応の青年の無頼さを隠さなくなっていたが、クムに関わる真実に触れる時だけは、誓いを果たすために一切の障害を排除せんとする、成熟した不屈の先駆者へと変貌を遂げるのだ。
理想とは、未来の美しき光景への憧れと執念であり、険しき道を承知で突き進むための道標である。
しかしそれは同時に、その歩みの先に血の滲むような過酷さと、息の詰まる絶望が待ち受けていることを意味していた。
だが、文明の歴史を押し進めてきた無数の先駆者たちは、皆そうして歩んできたのではなかったか。西暦以前の太古の揺籃から西暦3000年の星海時代に至るまで、この宇宙において過酷な運命に立ち向かう勇者が絶えたことなど一度たりともない。彼らは世の冷笑と孤独に耐え、全身に傷を負いながらも前人未到の奇跡を成し遂げ、歴史の奔流の中に自らの名を刻んできたのだ。
もっとも、ジュリアン自身はそのような大層な栄誉など望んですらいなかった。
歴史に名を残すなどという自惚れた傲慢など、彼は一度たりとも抱いたことはない。
ただ……いつの日かクムの手を引き、あの暗い地下都市を出て、街行く恋人たちのように並んで陽光を浴び、他愛のない逢瀬を楽しみたい――そのささやかな願いすらも傲慢と断じられるのだとしたら、彼ジュリアンこそが、この歪んだ社会において最も救いようのない、そして最も誇り高き狂徒であるに違いなかった。
「あるいは、私は確かに傲慢なのかもしれませんね……」
ジュリアンは視線を窓の外から戻し、テーブル越しに、迷いを湛える少女の瞳を射抜くように見つめた。
「ですがお嬢様……セリア。あなたは、あなたを愛する者たちの心を、真に理解しようとしたことがおありですか? イレーナであれ、ルネであれ、カレナであれ……本能的な恐怖や拒絶を覚える前に、彼女たちがなぜあなたに対してそれほどまでに重く狂おしい情念を抱くに至ったのか、一度だけでも足を止めてその心に触れようとしたことがおありですか?」
静かに、しかし魂の芯を揺さぶるジュリアンの問いかけに、セリアは息を呑み、思考を奪われたように立ち尽くした。
その無防備な動揺を見つめながら、ジュリアンは求めていた答えをすでに得ていた。
「クムは、私が彼女に向ける愛を理解しようとしてくれました」
ジュリアンは伏し目がちに呟いた。その声音はかつてなく穏やかで、その瞳には満天の星々を溶かし込んだかのような慈しみが宿っていた。
「彼女は……私が彼女のために一族の未来や自らの命を投げ打つことを望んではいませんでした。ですが彼女はこうも言ってくれたのです――もしもいつか私が奇跡を起こし、彼女を地表へと連れ出すことが叶ったなら、自らの機械の魂に誓って、その永劫に続く生命のすべてを捧げ、私の肉体が老いさらばえて果てるその瞬間まで、傍らに寄り添い続ける、と」
ジュリアンの声はどこまでも優しく、微風のようにセリアの胸の奥を吹き抜けていった。
その澄み切った青の瞳の奥に、セリアは生まれて初めて、純白にして神聖なる愛の形を見た気がした。
それはかつて古のお伽噺や古典小説の頁の中だけに存在すると思い込んでいた美しき誓いであり、今、目の前にいる軽薄を装った青年と、社会から忌み嫌われる機械生命体とが紡ぎ出した、この上なく尊き浪漫そのものであった。




