第9話 残った人
人事局の棚は、廊下より寒かった。
「王妃陛下がお越しになるとは」
老官吏は、驚いた顔をしなかった。
驚くことに、もう体力を使わない歳なのだろう。
「王妃宮の記録を、拝見できますか」
「何年ぶんで」
「ある分を」
出てきたのは、綴じの厚い帳面だった。
誰がいつ、どこからどこへ動いたか。
推挙したのは誰か。決裁したのは誰か。
数字ではない。
だが、これも帳簿だ。
――義理の帳簿の、もう一つの形。
レティシアは、頁をめくった。
王妃宮の人員は、先王の御代からほとんど動いていなかった。
動いたのは、この二月だけだ。
――そういう場所だったのだ。
誰も、王妃宮の人事に興味を持たなかった。
興味を持たれた瞬間に、空になった。
*
隣の棚に、別の綴じがあった。
背に、そう書いてある。
『第一王子宮』
レティシアの手が、止まった。
――めくる理由は、ない。
王妃宮の記録を見に来たのだ。
それでも、彼女は手を伸ばした。
厚かった。
王妃宮の帳面の、三倍はある。
頁を繰ると、名前が並んでいた。
軍務府から、若い将校。
外務府から、語学の立つ書記官。
財務府から、主計官。
どれも、抜かれた側の府が痛がったはずの人材だ。
推挙の欄に、同じ署名が続いている。
――アデライド・ヴァンデル。
何年もかけて、集めている。
一人ずつ、府から府へ話を通し、借りを作りながら。
長男のために。
レティシアは、頁を繰り続けた。
そして、止まった。
ある年から、記録が途切れている。
罷免ではない。
解任でもない。
推挙の欄が、空白になっている。
その次の頁からは、人が一人も入っていなかった。
集めるのを、やめている。
「……この年に、何かが」
老官吏が、帳面を覗き込んだ。
「ああ」
それから、口をつぐんだ。
「あの年は」
言いかけて、やめる。
「……こちらから、動かしたのではございません」
それだけだった。
「では、どちらから」
老官吏は、答えなかった。
棚の埃を払う手つきが、少しだけ丁寧になった。
レティシアは、それ以上訊かなかった。
訊いてよいことだと、まだ思えなかった。
胸の奥に、引っかかりが残った。
東庭で、あの人の背中を見送ったときと、同じ形をしていた。
帰り際、老官吏が思い出したように言った。
「王妃陛下。ニナのことでございますが」
「はい」
「王太后宮の筆頭の席は、二月前まで、空いてはおりませんでした」
レティシアは、足を止めた。
「……空けた方が」
「ベアトリス・フォン・エッシェン侯爵夫人でございます」
初めて、その名を最後まで聞いた。
「どういう方でしょう」
「席次を、お決めになります」
「社交の」
「はい。……お決めになる、という言い方は、正しくございませんな」
老官吏は、綴じを棚に戻した。
「あの方がどうお思いか。それだけで、席は動きます」
*
「エッシェン侯爵夫人ですか」
ロイドは、すぐに頷いた。
「借りを作らない女だと言われています」
「お義母さまも、同じことを」
「事実です。あの家は、どこからも金を借りていない。娘も、嫁がせていない」
彼は、少し考えてから続けた。
「合理的では、ありません」
「……なぜ」
「借りを作らない代わりに、貸しも作れない。損得で動く人間なら、そうはしません」
レティシアは、あの日の名簿を思い出した。
十二の席のうち、最後まで空いていた、一つ。
「では、あの方は何で動くのでしょう」
ロイドは、答えなかった。
答えないことで、答えていた。
「一つだけ、聞いています」
やがて、彼は言った。
「エッシェン侯爵夫人がその席には誰それが座るとお決めになると、その通りになる。何年も、外れたことがないそうです」
「……当てているのでしょうか」
「当てているのか、決めているのか。誰にも区別がつかない」
ロイドは、名簿を返した。
「そこが、いちばん厄介です」
*
王妃宮は、回っていた。
ヴェルナーはいない。ニナもいない。書記官も、三人減った。
朝、扉を開けるのは、名前を覚えたばかりの下働きの娘だ。
紙が、机に置いてある。
『王妃宮の朝 ――誰がやってもよいこと』
書いてあるとおりにやれば、朝は回る。
娘は、書いてあるとおりにやった。
滞りは、三つ出た。
三つとも、その場で紙に書き足した。
「レティシア様」
エマが、その紙を見ていた。
「これ、増えていきますね」
「ええ」
「そのうち、レティシア様がいなくても回りますよ」
「……そうなると、いいのですけれど」
レティシアは、羽根ペンを置いた。
あの三年の彼女なら、その言葉に胸が冷えたはずだ。
いなくてもいい、と言われることが、いちばん怖かった。
――今は。
今は、それが仕事だと思える。
人を抜かれて困る宮は、抜かれる前から壊れていたのだ。
誰も、追わなかった。
追う代わりに、紙が増えた。
*
その日の夕方、一通の招待状が届いた。
封蝋の紋を、レティシアは知っていた。
十二の席のうち、最後まで空いていた、あの一つ。
『エッシェン侯爵夫人より、王妃陛下へ』
エマが、封を切る手を止めた。
「……お受けに、なりますか」
レティシアは、招待状を灯にかざした。
紙が、上等だった。
この人は、断られない紙を使う。
自分の招きが断られることを、想定していないのだ。
「……伺います」
レティシアは、封を戻した。
「借りを作らない方が、私を招く理由を、知りたいので」
窓の外で、灯が一つ点いた。
薬湯の間の灯だった。
あの日、消えなかった灯だ。
当てているのか、決めているのか、誰にも区別がつかない――そういう人が出てきます。損得で動かない、形のない権力の話です。
追わずに、残った人で回す。人を取り返しにいかない、という選び方をします。
次は「席次」。手を一切出さずに、席だけを動かす人と向かい合います。
悔しかった方。ブックマークを一つ、置いていってください。




