第10話 席次
「まあ、王妃さま」
声に、温度があった。
この二月、レティシアが聞いてきたどの声とも、違っていた。
エッシェン侯爵邸の広間は、明るかった。
窓が大きく、昼に灯を入れる必要のない家だった。
ベアトリス・フォン・エッシェン侯爵夫人は、両手を広げて歩いてきた。
「よくぞ、お越しくださいましたこと」
*
広間には、婦人たちがいた。
十二家のうちの顔が、いくつか混じっている。
東庭の茶会で、菓子と天気の話をした顔だ。
誰も、レティシアと目を合わせなかった。
合わせないことに、慣れている目だった。
壁にも、棚の上にも、贈られたものが一つもなかった。
どこの家にも、必ず一つはある。
誰それから頂いた、と言うためのものが。
この家には、それがない。
――もらっていないのだわ。
何も、もらっていない。
「お座りになって」
ベアトリスが、椅子を示した。
上座だった。
――正しい。
王妃が上座に座る。それだけのことだ。
だが、その椅子は、広間のいちばん端にあった。
窓を背にしている。
こちらからは、誰の顔も逆光になる。
あちらからは、こちらの顔だけがよく見える。
上座であることと、話に入れることは、別だった。
レティシアは、腰を下ろした。
*
「灯替えのお話、伺いましたわ」
ベアトリスは、真向かいに座らなかった。
斜めの、少し離れた席に着いた。
そこからだと、声が広間じゅうによく通る。
「順を、お飛ばしになったとか」
「……はい」
「まあ」
扇が、どこかで動いた。
「神官長さまが、たいそうお困りだったと聞きましたけれど」
「困らせました」
レティシアは、認めた。
ベアトリスの目が、ほんの少しだけ開いた。
――否定を、待っていたのだわ。
否定すれば、言い訳になる。
言い訳は、広間に残る。
「……存じ上げませんでしたわ」
夫人は、口元に手を当てた。
「王妃さまは、そういうふうにお答えになるのね」
*
話は、そこから流れていった。
庭の話。子どもの話。仕立ての話。
ベアトリスは、よく笑った。
笑いながら、婦人たちの名を一人ずつ呼んだ。
呼ばれた者が、答える。
順番が、決まっていた。
「そういえば」
夫人が、扇の先を軽く振った。
「来季は、あちらの奥さまが、こちらへお移りになるのでしょうね」
誰にともなく、言った。
広間の端で、一人の婦人の手が止まった。
顔色は、変わらなかった。
だが、隣の婦人が、椅子をわずかに引いた。
それだけだった。
誰も、何も決めていない。
誰も、何も命じていない。
それでも、席は動いた。
レティシアは、その一連を最後まで見ていた。
――この人は、席を動かしていない。
動かしたのは、この広間にいる全員だ。
茶が、二度替わった。
その間、ベアトリスは何も求めなかった。
領地の話をしない。
縁組の話も、しない。
王城の役に誰かを推したいとも、言わない。
レティシアは、頭の中の帳簿を開いた。
どの家が、どの家に頭が上がらないか。
誰が、誰の口利きで今の席にいるか。
この家の欄は、白紙だった。
貸しも、借りもない。
持っていないものは、返させられない。
「王妃さま」
ベアトリスが、扇を閉じた。
「来季の席次は、もう決まっておりますのよ」
「……存じませんでした」
「そうでしょうね」
夫人は、笑った。
温かい笑い方だった。
「わたくし、決めておりませんの。ただ、そうなるだろうと申し上げるだけですわ」
「……それは、同じことでしょうか」
広間の音が、薄くなった。
誰かの扇が、途中で止まった。
ベアトリスは、扇の先を頬に当てた。
「まあ」
それから、目を細めた。
「王妃さまは、お強いのね」
*
帰りの馬車で、レティシアは窓を見ていた。
得たものが、一つある。
あの人は、自分の手を出さない。
出さずに、そうなるだろう、と言う。
言われた側が、勝手に動く。
――手を出さない人には、潰す手が、ない。
王太后の手は、いつも形があった。
十二家に黙らせる。
儀礼を教えない。
人を、栄転で抜く。
形があるものは、裏返せた。
この人の手には、形がない。
あるのは、声だけだ。
胸の奥が、静かに冷えた。
*
馬車が、城の門をくぐった。
車寄せに、人が立っていた。
出迎えは、家人の仕事だ。
王が、自分でそれをする理由はない。
「……陛下」
「遅い」
即答だった。
それだけ言って、彼は先に歩き出した。
叱られたのだと思った。
思ってから、違うと気づいた。
この人は、待っていた時間の長さを、そう言う。
*
王妃宮の机に、書状が積んであった。
「五通です」
ロイドが言った。
「次の茶会の、打診でした」
――でした。
レティシアは、封を切った。
どれも、丁寧だった。
急な予定の変更により、出席が叶わなくなりました。
同じ文面を、一度読んだことがある。
順が、裏返っているだけだった。
「席次が、動きました」
ロイドは、書状を返さなかった。
「東庭に出た家が、来季、一つずつ下がるそうです」
「……どなたが、下げたのでしょう」
「誰も、下げていません」
ロイドは、机の端に指を置いた。
「エッシェン侯爵夫人が、そうなるだろうとおっしゃった。それだけです」
黙るのが、いちばん安い。
レティシアが一度壊した計算が、そのままの形で戻っていた。
「王妃陛下」
ロイドが、めずらしく言い足した。
「あの方は、王太后さまの手ではありません」
「……はい」
「王太后さまは、王妃陛下を降ろしたいのです。あの方は、違う」
彼は、書状を積み直した。
「あの方は、王妃陛下が何をなさろうと、どうでもよいのです」
レティシアは、いちばん上の一通を見ていた。
どうでもよい相手の席を、下げる。
自分の席が、一つ上がるから。
――それだけで。
胸の奥に、置き場のないものが残った。
第10話です。ここまでお付き合いくださって、ありがとうございます。
上座なのに、窓を背にした端の椅子。逆光で、こちらの顔だけが見える。「上座であることと、話に入れることは別」――席の一つで力を描けるのが、この世界の面白さです。
次は「白紙の帳簿」。全部書いてあるからこそ隙がない席次に、どう手を入れるか。
ブックマークは、あなたの席をこの物語に一つ取っておく、という意味に受け取ります。よろしければ。




