第11話 白紙の帳簿
その頁は、白紙だった。
エッシェン侯爵家。
貸し、なし。
借り、なし。
縁組も、融通も、去年の穴埋めもない。
レティシアは、三年ぶんの記憶をもう一度たどった。
王城の会計を通ったものなら、すべて覚えている。
あの家の名は、どこにも出てこなかった。
*
「十一家が、来季、一つずつ下がります」
朝、ロイドが名簿を置いた。
「では、上がるのは」
「一家です」
彼は、名簿の下から二行目に指を置いた。
エッシェン侯爵家。
「席の数は、決まっています。誰かが下がれば、誰かが上がる」
「……出た家が下がり、出なかった家が上がるのですね」
「はい」
レティシアは、羽根ペンを置いた。
「ご自分の席のために、なさったのでしょうか」
「合理的です」
ロイドは、そう言ってから、言い方を足した。
「俺は、この言葉を褒め言葉として使ってきました」
彼は、名簿を閉じた。
「今日は、そうではありません」
お義母さまは、信じているものがある。
王妃に能力は要らない。必要なのは、血と、静けさ。
間違っているとレティシアは思う。
だが、あの人は本当にそれを信じている。
信じている人は、自分の得のためには動かない。
この人は、違う。
この人は、得のために動く。
得のために、他人の席を下げる。
――そちらのほうが、よほど。
言葉が、途中で止まった。
その先にある言葉を、彼女は使い慣れていなかった。
胸の奥が、熱を持った。
冷たさではなかった。
これは、王太后を前にしたときには、一度も出なかったものだ。
*
昼、レティシアは式部官を呼んだ。
「席次は、どこに書かれておりますか」
「書かれております」
式部官は、すぐに綴じを持ってきた。
厚くはなかった。
家格。爵位。叙位の年。功。
順に、並んでいる。
「これで、全部でしょうか」
「はい。これで、全部でございます」
――書いてある。
レティシアは、頁をめくった。
灯替えの儀は、書かれていなかった。
書かれていなかったから、意味が落ちた。
意味を拾い直せば、順は分かった。
これは、違う。
全部、書いてある。
落ちているものが、ない。
「エッシェン侯爵夫人は、これを破っておられますか」
「めっそうもございません」
式部官は、心外そうな顔をした。
「あの方ほど、席次を違えぬ方はございません」
レティシアは、綴じを閉じた。
――守っているのだわ。
一度も、破らずに。
破らないまま、席だけが動く。
書いてあるものを掘っても、この人には届かない。
*
夕方、エマが一通を持ってきた。
「取り下げられていない打診が、一つございます」
「……どちらから」
名を聞いて、レティシアは顔を上げた。
東庭の茶会の帰り際、足を止めた若い当主だった。
文は、短かった。
『次は、初めからお受けいたします、と申し上げましたので』
それだけだった。
席が下がることは、書かれていない。
書かなかったのだ。
「この方も、下がるのでしょうか」
エマが訊いた。
「……下がります」
「では、なぜ」
レティシアは、答えられなかった。
言い訳をやめた人の理由を、言い当てるのは失礼な気がした。
――十一家が、そうなった。
――一家だけ、ならなかった。
誰も気づかないほどの、一つ。
胸の奥が、じん、と鳴った。
*
「合理的な手が、一つあります」
夜、ロイドが言った。
「席次は、序列です。序列は、記録で決まります」
「……記録」
「王妃陛下の記録は、いまだに婚約破棄のままです」
部屋の音が、なくなった。
「王城は、謝罪しました」
ロイドは、淡々と続けた。
「断罪の記録を訂正する。功績を、あらためて評価する。公に、発表する。決まったことです」
「……はい」
「決まって、それきりです」
レティシアは、知っていた。
知っていて、訊かなかった。
訊いてよいことだと、思っていなかったからだ。
「訂正されれば、席は動きます」
ロイドは、名簿を机に戻した。
「エッシェン侯爵夫人が何をお思いでも、記録には勝てません」
「……私は、それを望んでいません」
「存じています」
即答だった。
「望んでいないことと、要らないことは、別です」
合理的だった。
レティシアは、答えなかった。
「一つ、申し上げておきます」
ロイドは、扉の前で足を止めた。
「その話は、今日、宰相府でも出ました。俺ではありません」
*
翌朝、マルグリット夫人が来た。
いつもの刻限より、早かった。
「昨夜、式部官が離宮に呼ばれました」
「……離宮に」
「王太后さまが、お呼びになりました」
レティシアは、書類を閉じた。
あの人は、急がない。
茶会のときは、三日待った。
儀礼のときも、待っていた。
昨日の昼に出た話を、昨日の夜のうちに。
「何を、お訊きになったのでしょう」
マルグリット夫人は、しばらく黙っていた。
「一つだけ、伺えました」
夫人は、いつもの調子で言った。
「誰が、それを申しました、と」
レティシアは、動かなかった。
温度の話では、なかった。
あの人は、名を訊いたのだ。
誰が言い出したかを知りたい人は、その話を止める気でいる。
止めたい話が、あるのだ。
レティシアは、羽根ペンを取った。
帳簿には、まだ開いていない頁があった。
ヴァンデル。
あの人が、誰に、何を負っているのか。
三年、見ていた。
一度も、考えたことがなかった。
お読みいただきありがとうございます。
灯替えは「書かれないから意味が落ちた」もの、席次は「全部書いてあるから隙がない」もの。同じ『書く』が、逆を向きます。
次は「外れない人」。一度だけ予言を外した、その一度がいつだったのかに近づきます。




