第12話 外れない人
回廊で、その人とすれ違った。
王太后宮からの帰りらしかった。
「まあ、王妃さま」
ベアトリスは、足を止めた。
温度は、あの日と同じだった。
「一つ、伺っても」
レティシアは、言った。
「あなたは、何をお求めですか」
夫人の扇が、開いた。
「……存じ上げませんでしたわ」
笑っている。
「王妃さまが、そんなことをお訊きになるなんて」
*
「席の数は、決まっておりますの」
やがて、ベアトリスは言った。
あっさりとした声だった。
「誰かが上がれば、誰かが下がる。……わたくしは、下がりたくないだけですわ」
隠さなかった。
隠す必要が、ないのだ。
「王妃さまがお茶を召し上がるたび、わたくしの席が一つ危うくなる。それだけのことですのよ」
「……そのために、十一家を」
「わたくし、何もしておりませんもの」
扇が、閉じた。
「そうなるだろう、と申し上げただけ」
――当てているのか、決めているのか。
誰にも区別がつかない、とロイドは言った。
区別がつかないのではない、とレティシアは思った。
この人は、区別をつけさせないのだ。
「では、外れることもあるのでしょうか」
ベアトリスの扇が、止まった。
ほんの一拍だった。
「……まあ」
温度が、戻った。
「王妃さまは、お強いのね」
同じ言葉だった。
だが、同じ声ではなかった。
*
「一度だけです」
ロイドは、すぐに答えた。
「あの方が外したのは、一度だけだと言われています」
「……いつでしょう」
「エッシェン侯爵夫人は、第一王子が王になるとおっしゃっていました」
レティシアは、書類を置いた。
「あの方が外したのは、それきりです」
ロイドは、それ以上言わなかった。
――だから、二度と外さない。
外れないことが、あの人の席だ。
席のために、席を読む。
読んだとおりになるように、読む。
そういう人だった。
人事局の綴じが、頭に浮かんだ。
推挙の欄が、空白になった、あの年。
同じ年に、外れた人が、もう一人いる。
胸の奥に、引っかかりが残った。
*
王太后宮の庭は、風があった。
「お義母さま」
針は、止まらない。
「記録の訂正の話は、私ではありません」
レティシアは、先に言った。
言いに来たのだ。
訊かれた名が、自分だと思われているなら、違うと言うべきだった。
「では、誰です」
「……存じません」
針が、止まった。
「あの話を、止めなさい」
初めて、この人がレティシアに何かを求めた。
「望まぬと、おっしゃい」
「……」
レティシアは、答えなかった。
答えれば、この人は満足する。
――なぜ、この人が。
自分の息子の妻の名誉を戻す話だ。
戻れば、王家の体面が上がる。
止める理由が、ない。
理由がないのに、離宮の灯を夜に点けて式部官を呼ぶ人ではなかった。
「お義母さま」
レティシアは、顔を上げた。
「なぜ、お止めになるのでしょう」
庭の風が、刺繍の枠の上を通った。
アデライドは、答えなかった。
答えないことに、この人は慣れている。
だが、針を持ち直すのが、いつもより遅かった。
「あなたは」
アデライドが、刺繍の枠を膝に置いた。
「一人で立っているとお思いですか」
「……はい」
「あなたの夫は、あの夜、離宮へ参りました」
風が、止まった。
「供も連れず。馬も、自分で引いて」
レティシアの指が、膝の上で止まった。
あの夜。
これは、私の仕事です、と言った、あの日の夜だ。
「何を申したかは、申しません」
アデライドは、また針を取った。
「……ご存じなかったのね」
胸の奥に、冷たいものが落ちた。
――これは、私の仕事です。
そう言った日の、夜だ。
あの人は、頷いた。
分かった、と言った。
納得した、とは言わなかった。
レティシアは、立っていた。
引かない、と言うのは簡単だった。
誰にも助けられずに立っていた、と思い込むほうが、よほど楽だったのだ。
*
「あの夜、離宮に」
「行った」
即答だった。
言い訳も、前置きもない。
アレクシスは、机の向こうで書類から目を上げなかった。
「……なぜ」
「言わない」
いつもの人だった。
「私は、これは私の仕事だと申し上げました」
「聞いた」
彼は、書類を閉じた。
「君の仕事は、君のものだ」
一拍、あった。
「私の母は、私のものだ」
レティシアは、動けなかった。
この人は、彼女を庇いに行ったのではない。
母に、会いに行ったのだ。
守られた、のではなかった。
――ずるい。
そう思った。
この理屈には、断り方がない。
「……アレクシス」
「ああ」
それだけだった。
胸の奥が、じん、と熱い。
冷たかったところに、そのまま熱が乗った。
*
その夜、宰相府から書状が届いた。
『記録訂正の件、王妃陛下のご意向を伺いたく』
議題に、上がったのだ。
――望まぬと言えば、この手は消える。
言えば、お義母さまは静かになる。
言えば、ベアトリスの席も、そのまま残る。
言えば。
――それは、私が引いたのと同じだ。
レティシアは、書状を閉じなかった。
まだ、分からないことが多すぎた。
あの人が、なぜ止めるのか。
外れない人が、なぜ一度だけ外れたのか。
その二つが、同じ年に並んでいる理由も。
窓の外で、離宮の方角に灯が一つ点いた。
朝まで、消えないのだろうと思った。
ありがとうございます。
「誰にも助けられずに立っていた」と思い込むほうが、よほど楽だった――孤りでいることを選んできた人が、実は支えられていたと気づく回です。
アデライドが切った札に、アレクシスは短く返します。「君の仕事は、君のものだ」「私の母は、私のものだ」。
次は「記録の上では」。過去の断罪を訂正する、という手が動き出します。
この二行に胸が動いた方は、評価を一つ。




